■広がる人と人とのつながり
ちょうどそのころ、記者教育の業務に携わるようになったことも福島行きを後押しした。
「新人記者研修で被災地を訪れるようになったんです。そのなかで知り合ったのが、私の写真でよく出てくる大倉満さん」
本宮市にある浪江町の仮設住宅で自治会長を務めていた大倉さんは、震災当時はJR東日本の職員で、大野駅で当直をしていた。
「大倉さんは、新人記者たちに被災時の状況を話してもらった一人だったんです。浪江町では、西台というところの区長さんだった。非常に勉強熱心な方で、なんか妙にウマが合って。それからずっと親しくさせていただいています」
大倉さんをはじめ、記者研修を通じて知り合った人の環が徐々に広がっていった。さまざまな情報が入るようになると、取材の厚みも増していった。
「でも、最初は作品を撮ろうとは思っていなかったんです。現地に行って、そこの現実を見ているうちにだんだんと多くの人に知ってもらいたいと思い始めた。帰還困難区域の中の様子をどうみなさんに伝えたらいいのか、考えるようになった。その始まりが15年なんです」
16年からは月刊「Journalism」(朝日新聞社)に福島の取材写真と文章を寄稿するようになった。翌年からは写真展も開くようになり、毎年、直近の1年間に撮りためた写真を発表した。
「そこで『フクシマ 無窮』という題をつけたんです。『無窮』というのは、かすかな希望を感じるものの、遅々として復興が進まない現実をその語感に込めました」
「フクシマ」と、カタカナ表記にしたことについてはずいぶん悩んだという。
■「何のために来ているんですか?」
朝日新聞社を退職した18年には福島市でも写真展を開催した。「だけどね、ちょっと早かった」と漏らす。
「やっぱりね、まだ現実を受け入れられない方が大勢いらっしゃった。『何のために(福島に)来ているんですか?』と言われて、ちょっと、バッシングされたような感じもあった」