「でも、そのまま帰るのも……被災地を見たいと思った。体感したいと思ったんです。やっぱり、行かないとわからないことがあるので」
タクシーに乗った。それが唯一の交通手段だった。ひたすら東へ。それより南の地域は原発事故で封鎖されていた。阿武隈の山を越え、沿岸部に向かった。
「相馬港、松川浦を初めて見て、津波の恐ろしさというのを目の当たりにした。家が押し流されて、3階建ての3階の部分だけが残っていた」
松川浦に沿った漁師町では400人以上が亡くなった。
走るタクシーの窓越しから写したという写真は少しブレ、泥沼のような光景が広がっている。その手前にはひっくり返った船が塗装の剥げた腹を見せて浮かんでいる。
■時間が止まっていた
しかしその後は、震災関連の仕事で被災地を訪れても「熱を入れて写真を撮ろうとはあまり思わなかった。目についたものは撮っていましたけれど」。
その理由について、「まだそのころは、熱心に写真を撮っている方がたくさんいらっしゃったので」と言う。
さらに時がたつと、福島に行く機会もなくなった。
ところが、15年夏、帰宅困難区域を訪ねたのをきっかけに渡辺さんの気持ちが大きく変わっていく。
「共同通信社のOBから『いっしょに行きませんか?』と、声をかけていただいたんです。写真家の桑原史成さんとか」
福島市から川俣町へ。検問所で通行証を見せ、浪江町に入ると、最初に相馬を訪れたときとは異なる衝撃を受けた。時間が止まっていた。
「(えっ)と、思った。4年間、取り残されたように、まったく動きがない状況。非常にショックでしたね。その間、石巻とか、大船渡、陸前高田では、盛土を造成して新たな町をつくろうと動き始めていた。ところがここでは車が津波に流されたままの状態で、さびついて残っていたんです。ぜんぜん手がつけられていないな、と」
そんな様子にカメラに収めているうちに「これは記録として残しておかないと」、という気持ちが湧き上がってきた。
「それから福島に行く回数が増えましたね」