瀬戸内国際芸術祭の会場となる島々の説明会に参加するため、チャーター船でまわる。明るい色のスーツと帽子が定番スタイル。地方の人たちに認識してもらいやすいと考えて選んだ(撮影/慎芝賢)
瀬戸内国際芸術祭の会場となる島々の説明会に参加するため、チャーター船でまわる。明るい色のスーツと帽子が定番スタイル。地方の人たちに認識してもらいやすいと考えて選んだ(撮影/慎芝賢)

「父は仏文科時代、小林秀雄の弟子でね。ランボォなんかをやっていたと聞いています。首相になった池田勇人と知り合いだったり、日銀総裁になった前川春雄と盟友だったりと変わった男でしたよ。姉の若菜の名付け親は作家の中野重治ですし。56年で共産党の活動をやめたのは、おそらく党にパージ(追放)されたからでしょうね」

 省一はその後、良寛の研究者となった。

「思い返せば、僕がよく遊んでいたのは我が家よりさらに貧しい子たちでした。在日とか被差別部落の子。当時はそんなことは知らなかったけど。それに対し、父は何も言いませんでした」

 貧しい暮らしながら、文化と縁がなかったわけではない。年末にはヘンデルの「メサイア」のコンサートに行ったし、父が関わったフランス文化協会主催の映画上映会にも連れて行かれた記憶がある。絵の好きな姉が写生に行くのについていき、彼女が持っている画集を眺めることもあった。

 県立高田高等学校に入ると、学校の勉強は放り出して園芸部、陸上部、新聞部と忙しく活動した。ロマン・ロランやトルストイを愛読し、他校の学生とともに、女性史家で民俗学者の「高群逸枝(たかむれ・いつえ)研究会」にも没頭。高校3年の時は昭和天皇の新潟県行幸に反対してゼネストを計画するなど、すでにいっぱしの政治少年である。彼の中で、花を育てることと政治活動をすることは同じ地平にあった。一方で早く東京へ出て、もっと熱い世界に身を投じたいとも思っていた。

 65年、上京。アルバイトをしながらさまざまなデモに参加。早稲田大学の学費値上げ闘争では初めての逮捕も経験した。まだ未成年だった北川の身柄を引き取りに来たのが、姉・若菜の夫で建築家の原広司(ひろし)(82)である。原はまず、汚れきった義弟をサウナに連れていき、焼き肉を食べさせた。

「こういうことには若菜より60年安保世代である私の方が慣れていたので引き取りに行きました。政治的なことへの対処法はわかっていましたからね。フラムは最初に会った時からいきいきとした少年でした」(原)

 その時借りた弁護士費用を今も受け取ってくれない原に、北川はさまざまな影響を受けた。その後も政治活動を続けたが、67年、第2次砂川闘争で機動隊とぶつかって頭に大怪我を負う。

「最初は警察病院に運ばれたんだけど、ほどなくして御茶ノ水の東京医科歯科大附属病院に転院しました。少し良くなると病院を抜け出て上野へ散歩に行き、いろいろな美術展を見たんです」

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