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各地で芸術祭がブームだ。「瀬戸内国際芸術祭」をはじめ、新潟の「大地の芸術祭」、石川の「奥能登国際芸術祭」。
ディレクターの北川フラムは開催地へ何千回と足を運ぶ。地元住民に説明し、理解を深めることで、その土地が際立つ芸術祭が誕生するのだ。
北川を貫くのは運動家としての精神。学生運動をはじめ、いくつものデモに参加し、逮捕もされた。今もその反骨精神は消えていない。
「瀬戸内国際芸術祭2019」の春期終了を翌日に控えた土曜日、北川(きたがわ)フラム(72)は香川県の丸亀港からチャーター船で本島(ほんじま)をめざしていた。この日は三つの島々を巡り、住民への説明会を開催することになっていた。瀬戸内の12の島々と香川県の高松、岡山県の宇野を舞台に展開される瀬戸内国際芸術祭は、10年に始まり今年で4回目。瀬戸内海に点在する一見のどかな島々も、それぞれ人口の減少や産業廃棄物による汚染(豊島<てしま>)などの問題を内包してきた。いわば日本の典型的な過疎地である。
北川はまず本島に降り立つと、島の公民館で行われる住民説明会に臨んだ。瀬戸内国際芸術祭はこれから夏期(7月19日~8月25日)・秋期(9月28日~11月4日)を迎える。それぞれの島にどんなアーティストがやってきてどのような作品を作るのか、資料を前に説明会が始まった。参加者は高齢者が多く、資料をめくりながら作品について楽しげに会話している。そこには新しい作品やアーティストたちへの期待感があった。もうここではアートが日常なのだ。
「最初は違いましたよ。『大地の芸術祭』もそうですが、地元ではものすごく警戒されました。『わけのわからない人間がやってきて、わけのわからないことをするらしい』って」
と北川は言う。00年に新潟県で始まった「大地の芸術祭 越後妻有(えちごつまり)アートトリエンナーレ」は、その成功によって瀬戸内など日本全国に芸術祭ブームを起こした。過疎の地に世界中からアーティストが訪れ、その土地からインスピレーションを与えられながら作品づくりをする。ときには何カ月も滞在して、地元の人々と交流しながら完成させていく。芸術祭が始まれば、大自然の中に点在するアートや地元の食を楽しむために多くの人が訪れる。それも世界中からだ。今でこそ珍しくなくなった芸術祭のスタイルを最初に日本にもたらしたのは、まぎれもなく北川である。
■さまざまな運動に身を投じ、機動隊とぶつかり大怪我
北川は1946年、新潟県高田市(現・上越市)に生まれた。ノルウェー語で「前進」の意味を持つ「フラム」という名をつけたのは、父・省一である。北川家は不思議な家だった。省一は東京大学文学部の仏文科を中退し、56年まで日本共産党員として活動していた。あらゆる選挙に出馬しては落選する。家は貸本屋とたばこ屋を兼ね、母が必死で働いていたが金とは縁がなかった。当時の高田市では、活動的な共産党員の子どもは決して生きやすくはなかっただろう。