もともと美術が好きだった北川の中に「絵を描きたい」という気持ちが頭をもたげた。東京藝術大学美術学部芸術学科を受験し、合格。藝大にも吹き荒れていた大学闘争ではリーダー格として活動し、バリケード封鎖も指揮した。当時の北川を知る何人かの同級生から「フラムはとにかくカリスマ性があった」と聞いたことがある。だが北川は、当時の藝大の空気に疑問を感じていた。
「何しろ欧米のアートがメインストリームで、自然の中で花を育てるとか、日本の生け花がどうこうなんて言い出せない雰囲気だったから」
■映画企画で巨額の借金、ヤクザから取り立ても
ここで北川は仏教美術と出合う。藝大では学生に日本美術を学ばせるため、京都や奈良へ長期の研修旅行に行かせるならいがあった。北川は仏教美術史学者の水野敬三郎にかわいがられ、仏像調査や撮影にも助手として加わった。許可を得て、ごく近くで仰ぐ仏像は圧倒的な迫力があった。
「神護寺の(国宝の)薬師如来立像(やくしにょらいりゅうぞう)をそばで見たとき、僕は射精しちゃったのね。それくらいの感動があった。あの薬師如来がいいなんてわかりきってることだけど、それを今の美術でできるかもしれない。いつかまたあの感動があるかもしれないと思って、ずっとアートの活動を続けてるんです」
やがて北川は、「描く対象があり、その描き方によって評価される」というカリキュラムに反発し、大学の外へ目を向けるようになった。仲間たちと共に「ゆりあ・ぺむぺる工房」を設立し、喫茶店の壁塗りやパン屋の看板描き、工事現場の囲いの絵描きなどを始めた。小さな美術展やコンサート、演劇のプロデュース、執筆にも手を染めていった。彼には豊富なアイデアと推進力があった。
北川としばしば協働してきた義兄の原は、
「人には生まれながらにいろいろな才能があるものだけど、フラムには間違いなくプロデューサー、オーガナイザーとしての才能がありますね」
という。
藝大卒業後はプロデュースや執筆の仕事のほか、79年には版画企画ギャラリー「アートフロント」を、82年には「アートフロントギャラリー」を設立し、知人から出版社「現代企画室」も引き継いで、経営者としての活動に傾いていった。だが挫折も多かった。日本・メキシコ合作の映画では企画が頓挫し、巨額の負債を抱えた。取り立てのヤクザに殺されかけたこともある。当時を知る現代企画室の太田昌国(75)は、返済金の工面に苦労する北川の姿を見ている。
「友人知人に電話で借金を申し込むときのフラムの明るい声! 相手に心配させないための戦術だったんでしょう。僕が給料をもらっていたか? どうだったかな、どうやって暮らしていたんでしょうね(笑)。結局は、バブル経済に支えられて返すことができたんです。当時はアートがよく売れましたから」