88年から90年には、「アパルトヘイト否! 国際美術展」を企画・実行。世界の81人が製作した154点におよぶ反・人種隔離政策のアートを「ゆりあ・ぺむぺる号」と名づけた美術収蔵庫付きトラックに乗せて運び、全国194カ所に組織した草の根実行委員会の地元で展覧会を開催した。会場は公民館、体育館、美術館とさまざまだった。
「たとえば釧路では市場の人たちが協力してくれた。あそこにはアイヌの故地がありますからね。みんながやりだすと政治家も変わってくる。これにはかなり大きな意味があるんです」(北川)
さらに北川の仕事が転機を迎えたのは、東京・立川米軍基地の跡地につくられた「ファーレ立川」(94年竣工)のパブリックアート・エリアのプロジェクトだった。5・9ヘクタールの広さに公共施設やホテルなどが点在し、そこに109点ものアートが設置されている。北川は企画からアートディレクターとして、参加アーティストの選定、交渉などを担当。参加したアーティストは36カ国92人を数えた。好きなアートを部屋に飾る、あるいは美術館のホワイトキューブの中で展覧会を見るという以外に、現代アートに親しむ手段としてのパブリックアートのあり方を、北川が「ファーレ立川」の仕事で示したといえる。
■大地の芸術祭立ち上げに2千回のミーティング
大地の芸術祭では新潟県十日町市・津南町にまたがる広大な地域にたくさんのアートが点在している。そこにある集落はおよそ200。冬には世界有数の豪雪に埋もれる土地で、四季折々に美しいが、瀬戸内の島同様過疎に悩んでいた。集落の結びつきが強いだけに、よそ者への警戒心も強かった。この芸術祭をスタートさせるにあたり、最初から協力してくれた集落は2カ所だけだったという。12年から活動を支援するオイシックス・ラ・大地の創業者・高島宏平(45)は、若菜の息子・原蜜(アートフロントギャラリー)と中高の親友だったことがきっかけでオフィシャルサポーターのリーダーになった。
「フラムさんは『最初に激烈な反対運動があったほうが、活動が長く続く。感情的な対立と対話、理解していくプロセスがあったほうがいい。最初から、どうぞどうぞ、というほうが続かない』と言ってましたね。妥協せず、最後まで細かいことをやり切るところなんかは創業者に似ている気がします」(高島)
北川は何百回でも現地に足を運び、説明することを厭わない。大地の芸術祭立ち上げの際には、2千回ものミーティングに参加した。高田で生まれ育った彼には、よそ者を警戒し、自分たちの生活を守ろうとする人々の気持ちがわかる。対話重視のやり方は、高校時代に他校の学生と読書会を開いたり、学生運動のリーダーとして活動したりしていた頃に身につけたものだろう。