■成績優秀でも反抗的、何度も学校から呼び出し
万博の翌年に大阪のベッドタウン、高槻市で生まれた長子。父・雅雄は発電所をつくる技術者にして猛烈サラリーマン。ローンという枷がなければ会社をやめたくなると次々に家を買い、自分で塀まで作ってしまう、娘の目にも「変わった人」だった。母の尚子はピアノ教師で、家にはグランドとアップライトの2台のピアノがあった。本と食べ物は潤沢に与えられたが、『赤毛のアン』のマリラのような母はフリフリの服を欲しがる娘にファミリアの紺やグレーの服しか着せなかった。母の教育方針はときに手も出るスパルタで、「出ていけ!」と言われても、「その言葉を待ってた。出ていく!」と娘も負けてはいなかった。
ピアノの発表会で先生に花束を渡すと、そのまま動かずに客席を見渡すような少女だった。小学校では演劇部に入り、5年になると宝塚の卒業生が主宰するミュージカルの学校へ通ったが、子ども心にも自分に才能がないのはすぐにわかった。世界との親和性を疑う決定打は、3歳から始めたピアノだった。週に1度近所の先生のレッスンを受け、月に1度母の先生に習い、その上、母の「鬼のような」指導が毎日2時間。一瞬ピアニストを夢みたが、練習は地獄の苦しみだった。
大阪の実家で迎えてくれた尚子は明晰な話しぶりで、面立ちが娘によく似ていた。子どもの習い事に家族で入れ揚げるのが流行(はや)っていた頃で、娘をプロにしようとしたわけではないという。
「でも、私の子どもができないと思われるのはプライドが許さないものだから、すごく厳しく怒りました。その可哀想さはわかっています」
後悔を見せる母の横で、娘は「あれもいい経験やったよ」と、おとわのようなことを言う。
「あれほど報われないことはなかった。でも、おかげで大抵の苦労がそんなに苦労と思えないところがありますからね」
ピアノをやめたのは、中学2年の発表会のあと。ステージでショパンのソナタを弾いているときに突然、左手が動かなくなったのだ。舞台から降りて「ピアノやめる。勉強するわ」と告げると、母は「やめなさい」と言っただけだった。
だが、どこまでも世界は生きづらい。小5で引っ越した茨木市の中学が荒れに荒れていた。ヤンキーといかに付き合うかという死活問題がある上に、成績優秀でも反抗的な生徒を教師は目の敵にした。何度も学校から呼び出された母は形だけ謝り、娘を叱ることはなかった。学年主任から「授業中に寝るわ喋るわ、言うことはきかないわ。そのくせ当てたらちゃんと答えて憎たらしい。森下さんみたいな生徒大嫌い!」と電話がかかった夜も、「あの先生、アホや」と言い捨てただけ。