「住宅情報」の編集部に配属された森下には、さまざまな伝説が残っている。「あなたのお部屋でヘアヌード」という企画を出した。「やめてやる!」と自分の名刺を破り捨てた翌日に、「名刺作ってください」と庶務に頼んだ。キャミソール姿を注意され、「乳首が見えないからいいじゃないですか」とキレた。などなどだが、極めつきは入社1年で、芝居をやりたいからと「査定は最低でもいいので、年に1カ月休みをください」と申し入れたことだ。女性上司は拒絶した上で、その有能さを認めて「バイトになれば」と勧めた。
森下が正社員の座を手放せたのは結婚が決まっていたからでもある。入社した年の秋、芝居仲間の結婚式で3次会の費用3千円を借りたのが縁で3歳年上の俊と意気投合し、3日目に同棲を申し込んだ。銀行マンの彼は「職業柄難しい」と躊躇したものの、「じゃあ結婚して」と言うと「いいよ」。翌95年、同期の先頭を切って24歳で結婚。物心両面の安定を得た森下は、妻の野心を歓迎する俊に「やりたいことがあるなら勉強したほうがいい」と背中を押され、フリーのライターとなって27歳でシナリオ学校に通い始めるのである。
チャンスはすぐにやってきた。まだ勉強中にプロットライターの仕事が入り、そこで出会った脚本家・遊川和彦の企画プロデュースで脚本家デビューを果たすことになる。すでにヒットメーカーだった遊川は、28歳の森下を抜擢した理由をよく覚えていた。
「あの時は数人でコンペをやったんですが、一言で言えば生意気だったから。目茶苦茶なシーンを書いてくるかと思えば、美しいナレーションや台詞を書く。自信と不安がないまぜで、成り上がるぞという気迫に満ちていました」
遊川は、「観ている人のことを考えろ」と手取り足取り脚本の書き方を教えてくれた。激しく叱られ、手放しで褒められた。そうして書いた「平成夫婦茶碗」はヒットし、すぐに遊川との次の仕事が決まった。脚本家になれた森下は、編集者時代の経験が自分の強みだと気づく。締め切りを守るのは当たり前、自尊心をなだめて譲れるものは譲るという現実的な選択ができた。それは、ドラマ作りというチームワークには向いていた。
けれど、世界はまだ優しくはない。2年後、独り立ちして書いた脚本が散々な結果に終わると、仕事の発注はパタリと止まる。ちょうど香港に単身赴任していた俊が日本に帰国した時期。落ち込み、「下げチン!」と夫に八つ当たりした。