あえて第三者を入れ込む場合もある。下の、マーケット前での写真だ。
「子どもの動きを面で考えてとらえていたら、おじさんが現れて、さらに次の偶然が加わった。これは構図を決めていたからできた写真です。こういう場合はほかの人に入ってもらっていいですよね」
〈子どもをどう撮るか? 上級編〉
「大人になったときに残る写真」
「かわいい肖像から尊厳ある肖像へ」
■「引く」ことで得ること
一般的な親の目線では子どもの顔と表情に寄り、追っていく。そこから、「引くこと」。ここに濱田さんが撮る、子どもの写真のコアがある。
「あえて引いて撮ってみると、子どもがどういう環境や状況にいるのかが、写真一枚でわかりますよね」
撮る側の想いと、成長した子どもたちの想いの2段階について濱田さんは続ける。
「子どもたちが後に写真を見て、自分はこんな子どもだったんだと思うことがあるでしょう。また、こんな家に住んでいたとか、周りにも目がいく。失われていく、忘れていく風景をちゃんと撮っておくといいですね。結局それが、親が自分をどう見ていたかにつながると思います」
写された側はまず自分がどう写っているかを見る。そこを経て、自分の周りを見渡す視点の移動がある。
「周囲が写っているからこそ、こういう場所で育てられて、親が見守ってくれていたのか、などと想像するのかなと思います」
■見る人が受けとめるもの
肖像写真が写される側にとってどんなふうに受けとめられていくか。子どもの肖像はそんなことを深く考えさせてくれる。それは、親子の想いを超えて、写真を見る人の気持ちに関わっていく。
「自分が子どものときを思い出すという反応がすごく多かったんです。子どもの写真がいろんな人に置き換わると気づいたとき、それを研ぎ澄ましていこうと思いました。ただ、見ている人がこの写真自体にあまり深く入り込むようにはしたくなくて。僕と彼らとの世界だから、そこから離れて見る人の昔や今、これからの家族に思いをはせてもらいたいんです」
通りすぎてもらえるぐらいがちょうどいい、とも濱田さんは語る。その風通しのよい肖像写真は、この時代の空気感をあざやかに伝えている。
○はまだ・ひであき/1977年、兵庫県・淡路島生まれ。関西大学文学部英語英文学科卒。35歳でデザイナーからフリーの写真家に。雑誌、広告などで幅広く活動中。2012年、写真集『Haru and Mina』を台湾で出版。19年7月、世界各地のさりげない光景を収めた『DISTA
NT DRUMS』(私家版)を刊行。
写真=濱田英明
構成・文=池谷修一(編集部)
※アサヒカメラ2019年8月号より抜粋