太鼓橋然とした竪川の専用橋で行き交う29系統葛西橋行きと38系統錦糸堀車庫前行きの都電。後方突き当りが京葉道路上の水神森停留所。水神森~竪川通(撮影/諸河久:1965年10月1日)
太鼓橋然とした竪川の専用橋で行き交う29系統葛西橋行きと38系統錦糸堀車庫前行きの都電。後方突き当りが京葉道路上の水神森停留所。水神森~竪川通(撮影/諸河久:1965年10月1日)

 その写真左に写るコンクリートの壁は第二精工舎のもので、いすゞやトヨタのダンプカーが無造作に駐車している。画面右端には東映系映画館が盛業中で、折りしも撮影日の一週間前に封切られた成人映画「くノ一化粧」(1964年12月・東映/中島貞夫監督)が上映中だった。

 砂町線は画面の右奥に所在した千葉街道口停留所跡を過ぎ、竪川に架橋された専用橋を渡る。往時は竪川にも物資運搬船が通っていたので、船の通行に支障がないように、橋の中央を嵩上げした太鼓橋のような形状だった。

「竪川人道橋」の北詰めに設置された都電モニュメント。単なる軌道と車輪では、都電のイメージには程遠い。(撮影/諸河久:2019年6月1日)
「竪川人道橋」の北詰めに設置された都電モニュメント。単なる軌道と車輪では、都電のイメージには程遠い。(撮影/諸河久:2019年6月1日)

 1972年11月に砂町線が廃止されると、道路中央の軌道跡を遊歩道とした「亀戸緑道公園」が整備され、散策する住民で賑わっている。竪川に架かる前述の専用橋も、都電廃止後は緑道公園が延長される格好で「竪川人道橋」として竪川を渡っている。竪川人道橋の北詰めには、軌道と車輪のモニュメントが設置され、当時走っていた29・38系統のプレートも展示されている。

 都電砂町線の路線跡を歩くと、当時の工場地帯は高層マンションに様変わりしていた。多くの住民が都電軌道跡の緑道を利用して、自転車や徒歩でJR亀戸駅方面に向かっていく。クリーンエネルギーで、利用者に優しい乗り物の時代がもう少し早く到来していれば、「残存した荒川線と同様に、都電・城東線として路面電車を活用できた」という悔しい思いで水神森を後にした。

■撮影:1965年10月1日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)などがあり、2018年12月に「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)を上梓した。

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