受験勉強は最後の追い込みで算数と格闘する修羅場はあったものの順調に進み、第一志望校に合格しました。「絶対に受からない」と言った担任教師の鼻を明かしてやりたいという意地もありました。担任は合格を知って意外そうな顔をしていましたが、内申書で悪意ある点をつけるでもなくほぼ全部を「大変よい」にしてくれたので、ありがたいことでした。でも卒業式の時に母に「小島さんのことを考えると胃が痛くなりましたよ。とても大人びた面ととても幼稚な面の両極端で、間がない」と言ったそうです。それを私に告げた母の顔には「失礼な先生よね!」と「でもそれわかるわすごく!」と書いてあったので、なるほど私にはそのような偏りがあるのだなと興味深く思いました。幼稚だってのはわかるんだけど、大人びているってどういうことだろう?

 今思うとそれは客観性や批判精神のことだったんだと思います。冷静に事態を分析して生意気なことを言うかと思ったら、駄々っ子のように感情的になってふてくされる、教師や親にしてみたら扱いにくい子供だったんでしょう。ADHDを持つ子供は同年齢の子に比べて精神的に幼い面があるという説もあるようですが、私の場合は障害ゆえか、生来の性分か、確かにそういう傾向はありました。先ほどの話に出てきたマネージャーは22歳の女性なのですが、46歳のうっかりミスの多い私としては彼女の方が自分よりもよほど大人だと思うこともあります。人の成熟度というのは年齢と比例するものではないし、全人格的に一様に成熟を遂げるものでもないでしょうから、私の中にはいまも大人と子供が混在するというか、幼い部分と人並み以上に老成した部分とがあり、その差がかなり大きいので時として周囲の人に奇異な印象を与えるのかもしれません。

 発達障害の子供たちの教育支援をしている私の友人は障害を持つ人たちを愛情込めて「凸凹さん」と呼んでいます。私もこの呼び名にはとても納得感があります。得意なことと苦手なこと、うまくいくときといかないとき、視点のズームや引きの幅が大きくて「ちょうどいいところで安定し続ける」ということがあまりありません。年齢とともにその辺りをうまく調整することができるようになってはきましたが、ちょっといつもと違うことが起きたり仕事が立て込んだり体が疲れたりすると、すぐに混沌に飲み込まれてしまいます。だから、上手に流されるようにしています。流されまいと踏ん張ると折れてしまうので、とにかく流れに身を任せて、しかし溺れないように立ち泳ぎをしながら上手に岸にたどり着くという感じでしょうか。そのためには一人ではダメで、とにかく周囲に理解してくれる人が必要です。深く理解する人を一人、という手もありですが、ちょっとだけわかってくれている人を複数作るのでもいいかもしれません。あちこちの枝につかまりながらゆっくり岸にたどり着くことができますから。

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