■学校の授業と塾の授業

 さて前回は幼少期の暮らしの様子を思い出して書いたのですが、今回は中学に上がるところからです。すでに書いたように当時は発達障害ということ自体が知られていなかったので、本人も周囲もこの一風変わった特徴にほとほと手を焼いていました。そこへ加えて思春期です。めんどくさい要素の掛け算ですからえらいことになるのは目に見えていました。

 私が当時はまだ東京郊外では珍しかった中学受験をすると知った小学6年の担任教師は、「絶対に受からないだろう」と母に言ったそうです。授業中におしゃべりがやめられず、何度注意しても直らない上に教師に対しても反抗的な態度を取っていたので、そう思うのも無理はありません。教師の側にも今でいうスクールセクハラやパワハラの問題があったのですが、当時はそれは「よくあること」でした。母は、娘が東京郊外の公立中学に進むよりも都心の私立の女子校に進む方がいいだろうと考えて、5年生の時に私に受験を勧めました。私も同じ学年の子達と一緒に地元の中学に行く気になれなかったので承諾。地元の進学塾の入塾試験でいきなり最上級クラスに振り分けられて、あれ?私意外と勉強できるんだな、とやる気が出ました。今では考えられないのんびりした話ですが、大手の進学塾、四谷大塚に入ったのは6年生の4月。当時は2教科会員というのがあり、入試も算数と国語の2教科だけという学校がかなりありました。母は流石に私をよく見ており「慶子は4教科をこなすより2教科に集中して得意な国語を伸ばしたほうがいいと思う」と判断。えー、理科の勉強面白そうだけどなーと思ったものの、確かに4つやるより2つの方が楽そうだったので素直に従いました。受験勉強自体は楽しかったし、算数は人並みかそれ以下だったけど国語が抜群にできたので成績は上位でした。

 今思い返しても不思議なのは、小学校の授業では気が散りまくって寝たりよそ見したりおしゃべりしたりしていたのに、塾ではそれがなかったことです。目的がはっきりしていたのと、授業が面白かったのと、あとは塾の空気が好きだったからかもしれません。塾には自分と同じくらいの学力の子達が「志望校に合格する」という同じ目的で集まっており、先生も教えるのがうまくて、全員の利害が一致しています。地元では「小学校には通うもの」という以外に目的はなく、友達も志を同じくしているわけではなく、勉強も緩く、先生はパワハラセクハラめいたコミュニケーションが面白いと思っている人だったので、学校が好きじゃありませんでした。6年生の時に好きになった男子は賢くて足も速くてサッカーが上手くて、性格も良くて笑いのツボも似ていて、卒業アルバムに「乾坤一擲」って漢字で書ける子だったけど、そんな子は少数派でした。ちなみに彼はその後、地元の進学校から国立大に進んで弁護士になったという噂を聞いたけど、今頃どうしているのかなあ。まあいいや、とにかく、私にとっては気が散りやすいことこの上ない環境だったのです、地元の小学校は。

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