2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は桜の名所「飛鳥山」の観桜客の足としても親しまれている王子駅前の都電だ。
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都電荒川線は以前にも「三ノ輪橋」を紹介したが、現存する唯一の都電であり、地元の人々に愛されているだけでなく鉄道ファンの間でも人気は高い。写真は王子駅前停留所から栄町方にカメラを向けた、56年前の一コマだ。
王子駅前から早稲田、赤羽、三ノ輪の三方向に路線を持っていた王子電気軌道が、第二次大戦中に制定された陸上交通事業調整法により東京市電に統合されたのは1942年2月だった。翌1943年には東京都制の施行により市電から都電に呼称が替わった。旧王子電気軌道を統合した路線は、東京都交通局の三河島線(三ノ輪橋~熊野前)、荒川線(熊野前~王子駅前)、滝野川線(王子駅前~大塚駅前)、早稲田線(大塚駅前~早稲田)、赤羽線(王子駅前~赤羽)になった。
戦時中の1944年の運行形態は32系統(王子駅前~早稲田)、37系統(三ノ輪橋~大塚駅前)、38系統(三ノ輪橋~赤羽)の三系統で運行された。戦後は27系統(三ノ輪橋~赤羽)と32系統(荒川車庫前~早稲田)の二系統に改編された。27系統は1972年11月に赤羽線が廃止されると、三ノ輪橋~王子駅前の短縮運転となった。
1974年10月、27・32系統の存続が決まり、両系統を一体化した呼称の「荒川線」がスタートした。ここに、長年親しまれてきた都電の系統番号は終止符を打った。同時に路線名も旧呼称を廃止して荒川線(三ノ輪橋~早稲田)に改称され、現在に至っている。
余談であるが、荒川線存続と同時に経営合理化のための「ワンマンカー」の導入が決まり、1977年10月からワンマン・ツーマン混合運転となった。さらに1978年4月、7000型の車体更新、7500型のワンマン改造が完了したことで、オールワンマンカーによる運転となった。
■半世紀前の王子駅前と製紙博物館
写真は、通三丁目に折り返す19系統の都電が複線軌道の中央に敷設された折り返し線に入り、王子駅前で待機していた27系統三ノ輪橋行きと行き交うシーンを撮影した。