「賑やかでやりたい放題だった『博多っ子』とはまるで違う現場だったんです。現場のスタッフが話もせずスーッと動いていく。チームが出来上がっている中にポンと素人が入ってしまって、山田監督からは『ダメだダメだ、もう一回もう一回。君はいったいなんなんだ』とめちゃくちゃ怒られた。悪目立ちして、目障りきわまりなかったんでしょうね。単純に面白く見せたいと、よかれと思ってやってたんですけど、自己顕示欲みたいなものも出ていたんでしょう」

 続いて入った相米慎二の現場でも、「お前、曽根さんに何を教えてもらったんだ。何を習ってきたんだ」とどやされた。

 光石に助け船を出してくれたのは、「博多っ子」のときのスタッフたちだった。テレビドラマの仕事を与え、さらには、人づてに事務所をも紹介してくれた。いまも所属する「鈍牛倶楽部」の代表取締役・國實瑞惠が振り返る。

「『博多っ子』を見て、非常に面白いキャラクターだなと思ってました。主演はなかなか厳しいけど、息の長い俳優になるんじゃないかと直感的に感じましたね」

 事務所には、40代の緒形拳や小林稔侍がいた。こののちしばらく、光石は、2人の名優との抱き合わせ、いわゆる“バーター”出演で仕事を得ていくことになる。撮影現場では、「もれなくおしゃれ小鉢がついてくる」とささやかれていた。

 緒形の主演するNHK大河ドラマ「峠の群像」などメジャー作品に出演の機会を得て、光石は臆することなく突き進んでいった。
「素人が誰からも何も教わらず入ってきたというところが逆に面白いんじゃないかと自分では思っていた。どこかに若さゆえの根拠なき自信みたいなのがあったんでしょうね。当然、いろんな現場で怒られ続けるわけですが、そんな中で緒形さんから『あなた、おもしろいな。いまが辛抱だぞ』みたいなことを言われた。色がついていないという意味だったかもしれないけど、その緒形さんの一言で、どうにか皮一枚大丈夫というのがあったし、その後もずっと自分の支えになったんです」

 しかし、20代の終わりにさしかかっても、「おしゃれ小鉢」は小鉢のままだった。仕事の依頼は日を追うごとに減り始めていた。29歳で結婚したこともあり、生活は次第に厳しくなっていく。「博多っ子」の神通力も、緒形の威光も日増しに弱まっていった。

「依頼がくる役も本当に特徴のない友だちの友だちみたいなのになってきていた。いま思えば、そんなことは役者の仕事では当たり前のことなんでしょうけど、そのときは、とにかくこのままじゃやばいと焦ってました」

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妻の働きだけでは生活ができなくなった