例えば誰かの態度を「これは自分に対する好意なのかな?」と思っているところへ横から「あれは意地悪ではないか」と注釈が入ると、解釈を慌てて一から書き直し、好意的な態度に見えるものの中に懸命に意地悪である要素を探すことになります。しかし相手の様子はあくまでも自分の目には好意的な態度に映っており、それを母の言う通り悪意ある態度なのだと解釈しようとすると、相手ではなく自分を否定するしかなくなるのです。つまり、このような態度を好意的だと解釈する自分が間違っているのだ、と考えるに至るわけですが、そうなると見るもの全てが信じられなくなります。

 おそらく人は相手の態度から真意を予測し、会話などを通じてその裏付けを得ることで自分の予測が正しかったことを確認することを繰り返して、人間関係のカンを養うことができるのではないかと思います。私の場合は生来他人の感情が読み取れないのではなく、多少の不安定さは伴うもののある程度は読み取れていたところへ、母の視点という強烈なバイアスがかかったことで激しく混乱し、強い対人不安を抱くに至ったのではないかと思われます。

 父もまた親密なコミュニケーションに対する強い不安を抱えており、それが父娘の交流に緊張が伴う理由の一つとなっていました。子どもに侮られることを極度に恐れていた父は、和やかなコミュニケーションの際には懸命にそれらしき親密さを演じるのですが、一度不安に駆られると威圧的な態度になるため、子どもとしては父の真意がどこにあるのかはかりかねていたのです。これもまた、彼の生育環境によるものが大きいと推察されます。もしも家族の中に誰か一人でもおおらかな性善説に立って人との関係を育むことのできる人がいたら、家の中がもっと和やかであったろうと思います。

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