この時点でもまだ私は自分もありふれた子どもの一人であるという自意識は持っておらず、やはり天上天下唯我独尊マインドでした。しかし無性に所在ないという感覚は覚えており、それは団地の4階のベランダで一人しゃがんで路上の子どもたちを眺めている時とか、ダイニングテーブルで何か作業をしている母の足元に寝転んで味気ないテーブルの天板を裏側から眺めている時などに感じる無聊のようなもので、このとき覚えた所在なさは常に私の意識のベースに流れている気がします。

 相変わらず癇癪を起こしがちだった私は、幼いながらも自分の様子がやや常軌を逸しているらしいと感じることはありました。ただそれは衝動のコントロールに問題があるということに限られていて、そのほかは特に自分を変わっているとは思っていませんでした。何しろ比較対象がないので、それはそれで助かっていたのかもしれません。

 このころはまだ語彙も少なく、私は未分化の言語の世界に生きていました。世界は情報に満ちていましたが、それは匂いとか音とか空気とかに直に感応する形で体に取り込まれて、世界と私の間には切なさや懐かしさという感情を伴う親密な関係が出来上がりつつありました。

 それは例えば、夜の救急車とか、遠くの電車の音とか、カルキと洗濯粉の匂いとか、ネスカフェのCMとか、金属の玄関ドアのやたら大きな新聞受けとか、ドアの隙間から漏れるよそのうちの匂いとか、そういうものの中に感じ取れる世界の態度のようなもので、しかもそれには既視感があり、何処かへと魂が焦がれ出るような、あるべき場所への帰還を待ち望むような心持ちにさせられるのでした。

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