これには本人の気質的なものもあると思うのですが、同時に生育環境が比較的抑圧を感じやすい家庭であったことも影響しているかもしれません。ごく一般的な、いわゆるモーレツサラリーマンと専業主婦の核家族でしたが、私は母に強烈に依存しながら、母からの侵襲に常に怯え、強い嫌悪も感じていました。同時に自分が母親の全幸福に対する責任を負っているのだという強迫意識もあり、かつ私のこの息のつまるような濃密な母子関係の煽りを食って母との関係の不全感に苦しんでいた姉からの攻撃と愛玩に翻弄され、不在がちな父が時折見せる威圧と、父との接触時に本能的に覚える性的警戒感もあって、要するに家族の誰と接する時にも緊張を感じていたのです。

 けれどそれは家族のせいというよりも、私がそのような感受性の持ち主であったことがより大きな要因かもしれません。私の家族は誰もがそうであるように、それぞれにある種の繊細さと無神経さを併せ持った不完全な人々であったので、彼らが私の生きづらさを形作った要因の一つであることは事実ですが、彼らもまた扱いづらい末娘に戸惑い、どのように対処していいかわからず、それぞれが個人的に抱えたトラウマも相まって、苦しんでいたことは想像がつきます。彼らもまた養育的なケアを十分に受けて育たなかったため、他にやり方がわからず、聞き分けのない子どもに苛立ち、ときに心身の暴力に訴えることもあったのでしょう。不幸な組み合わせであったというほかにありません。

■魂が焦がれ出るような「死んだ人目線」

 3歳で日本に来て、住んだのは清瀬市の団地でした。このとき初めて私は同年代の子ども、しかも同じ髪と目の色で同じ言葉を喋っている子どもたちを目撃します。通りすがりの公園にしゃがんでいる女の子たちに関心を示した私の手をぎゅっと握って母は「あの子たちは言葉遣いが悪いからダメ」と言いました。大変残念でしたが、なるほどトモダチというやつは混ざっていいのと悪いのとがいるのだなと学習したのでした。

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