これが私が初めて他者を持った瞬間ではないかと思います。己も他者もいずれも等価で無二の存在であることを発見し、初めて自己の相対化に成功したのです。しかしそれにはある種の分離不安が伴っており、神様との蜜月が終わったと感じました。

 ちなみにこの神様が誰なのかは未だにわかりません。自分がここにいるのには何か「ことの起こり」があるだろう、その「ことの起こり」を知っている誰かがいるはずだという感覚は、幼い頃からありました。おそらくそれは私が、自己を発見した時に自然発生的に生じたのだと思いますが、神様なるものの正体がなんであるかははっきりさせない方がいいと思っています。対象が不確実な方が対話に緊張が伴わないので、より自由な形で祈ることができるからです。

 自己の相対化は私に劇的な世界の変化をもたらしました。どこかの横断歩道で親と信号待ちをしている時に町の人々が目に入り、今ここで信号が青に変わるのを待っている自分にとってはあの人たちは脇役に過ぎないけれど、彼らから見たら私もまた脇役なのだということに気づき、自分がシュッと小さくなったような、世界が急激に広くなったような気がしました。そしてそれはどこか肩の荷が下りたような安堵を伴ってもいたのです。自分の人生だけでなく母の人生の主役まで果たさなければならないという重圧は常に私にのしかかっており、自分が誰かにとったら取るに足りない無役の存在であると知ることはその重圧をわずかばかり和らげる助けになったのです。

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