こんなことを書いても、ありがちな感傷にしか見えないことはわかっています。でも自分の脳みそについて語るということは、どんな診断名がついたかを語ることではなく(それは医師の仕事)、私には世界がどう見えたかという話をすることに他なりません。

 ですからこのエッセイは、40歳を過ぎてから軽度のADHDと診断された私の障害語りというよりは、半生の実況のようなものです。私にこのように世界が見えたということは障害ゆえなのか、気質ゆえなのか、パーソナリティによるものなのか、環境によるものなのかはわかりません。おそらくその複合体が私という人間の認知の仕組みを作っており、時にはそれが私にとっての障害となり、時には生来の個性のようなものとして意識され、御し難い自己のありようとしても、祝福されるべき天与の才としても、生涯をともに歩むことになるのでしょう。

 どうか、同じ診断名がついてもそれは決して同じ障害ではないということを念頭に置いてお読みください。これは世界に一つの、私の脳みそに映った世界の話です。

 母はことあるごとに私がどれほど育てにくい子どもであったかを話して聞かせてくれました。癇癪持ちで利かん気で、すぐに「ご機嫌ななめ」になるひねくれた子ども。原初の記憶の中でも私は、オーストラリアの家の広い庭に咲く黄色いバラを眺めながら、泣きすぎてひきつけを起こしている体を母に預けて、重く甘やかな安堵に浸っているのです。

 先述したようにこのころは他に小さな子どもを見たことがない生活でしたから、遊ぶ時は一人遊びでした。女の子だからと人形も与えられましたが、人の姿をしたものには嫌悪を通り越して憎悪すら感じていました。すでに赤ん坊の時から、人形を持たせると散歩の途中でベビーカーからぶん投げていたそうですので、生来のものなのでしょう。今無理矢理に理由をつけてみれば、世界に一人の子どもであるという自意識を持った私は、他者との関係を模倣するごっこ遊びなどに興味が向かなかったのかもしれません。当時執着していたのはドーナツ形の赤いプラスティックのおもちゃで、飼い犬と取り合っていました。絵本は好きでしたがやはり人間よりは図柄とか動物とか、デザインの面白いものに執着していたように思います。

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