だが母は、お笑いの道を目指すことに猛反対した。渡辺がNSCに入って大学を辞めると、母は言った。

「大学は卒業してほしかった」

 そんな矢先、2000年1月に、母を交通事故で亡くす。渡辺の胸中は複雑だろうと、今も実家で渡辺と暮らす父・政夫(72)は言う。

「娘(渡辺の姉)に言わせれば、隆はお母さんっ子だったらしい。生前、女房はお笑いの道に入るのを受け入れていなかったから、隆も息子としての思いってのは、あると思う。M-1の優勝は、母親に一番見せたかったんじゃないかな」

 長谷川と渡辺が出会うのは、現在所属するソニー・ミュージックアーティスツ(SMA)でのこと。2人は吉本をやめていた。SMAにお笑い部門が立ち上がったのが、2004年12月。噂を聞きつけた渡辺が小田祐一郎(現・だーりんず)とともに「桜前線」というコンビで、翌年3月にエントリーした。長谷川は、その1週間後に入った。久保田と上京して「マッサジル」というコンビを組んでいた。

 だがその3年後、渡辺は30歳目前で桜前線を解散。ピン芸人となった。一方の長谷川も、40歳の夏、久保田が体調を崩したため2011年に解散。その翌年、渡辺が「コンビを組まないか」と声をかけた。渡辺は、こう述懐する。

「もう舞台に立ってるだけでバカだし、『めちゃくちゃ面白いなーこの人』と思った。雅紀さんがいるだけで、どのライブ会場も明るくなっていたんですよ」

 12年に錦鯉を結成。コンビを組んで最初の2年間はパッとしなかったが、2人と付き合いが深いSMAの先輩、ハリウッドザコシショウ(48)から、「決定打」となる助言をもらう。「長谷川は、バカを前に出せ」と。ザコシショウは、こう振り返る。

「錦鯉の漫才って、初期はスマートな、くりぃむしちゅーさんみたいな『引き芸』を目指していたんですよ。ボケをかます側が一歩引いて相手の面白さを引き出す、みたいなね。今思えば、『雅紀、何カッコつけてんだ!』って感じだよね(笑)。バカで笑いとるんだったら、最初からそれを出してきゃいいじゃん、みたいなことは言いましたね」

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 この助言もあって、「パズルのピースのように、真逆の2人がコンビとしてがっちりハマった」と長谷川は言う。

「僕は前に出てわーっと動いてしゃべる。隆はどーんと構えているタイプ。隆は普段から僕にとっての『東京のお母さん』的存在なんですよ。僕の方が年上なんですけど(笑)。芸人を辞めようと思ったことは何度かあったけれど、錦鯉を組んでから辞めようと思ったことは、一度もないですね」

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