ジャングルの中に忽然と現れる扇形の現代的な建物がサヒヤンデ劇場だ(撮影=Roshan P. Joseph)

薪を運び、川で洗濯をする村

 アタパディには、入植者と呼ばれる外から移住した人たちと、3つの異なる先住民族、合わせて7万人ほどが暮らし、共同体ごとにそれぞれ独自の言語をもつ。人口の半分ほどが、文字を読み書きしない先住民族だ。

 選挙の宣伝は紙で配られ、災害時の避難連絡など行政からの知らせは、拡声器を持った職員が村を練り歩く。

 劇場の近くではスプリンクラーが完備された広大なバナナ畑や、ヤギや牛を引いて歩く人々をあちこちで見かけた。私が出会った村の女性たちは、昼間は薪を集める仕事をしていた。夕方になると川で洗濯をし、ついでに自分の髪や体も洗う。

 ウーバーなどの配車サービスはなく、山のふもとのエリアまではバスが通るが、他に公共交通機関はない。サトコさんが買い物をするときは、車で10分ほど山を下った先にある小さな商店に出かける。

 「野菜、米、塩、砂糖、必要なものはだいたいそこで手に入ります。買い物は週に1、2回かな。牛乳は、地元の人が絞った牛乳を集める生協みたいな場所があって、そこにボトルをもっていくと、1日に朝夕2回、決まった時間に直接牛乳を買うことができます」

村人が慕う「サトコ」

 日常的に買い物をするという商店の近くで、オートリキシャーと呼ばれる3輪自動車の運転手にサトコさんとシャンカルさんの名前を伝えると、詳しい説明をしなくても山の上のサヒヤンデ劇場まで連れて行ってくれた。

 さらに、私が滞在したホテルで支払いコードをうまく読み込めずに困り果てていたときのことだ。サトコさんが手配してくれた運転手のお兄さんが、見かねて自分のスマホで支払いを済ませてくれた。もちろん彼にとって私はその日出会ったばかりの赤の他人だ。

 ありがたいけれど、どうしたものだろう……持ち合わせの現金がなく、言葉も通じないため私がオロオロしていると、彼は笑顔で「サトコ」と伝えてきた。どうやら「後で『サトコ』からお金を受け取るから、日本人のあなたは『サトコ』に支払いをすればいいよ」ということのようだ。運転手の彼にとって「サトコ」はそれだけ信頼できる人物なのだということが伝わってくる。

 サトコさんは、この場所の人々といったいどんな関係を築いてきたのだろう。

パートナーを追いかけてインドへ

 東京生まれのサトコさんがアタパディに住み始めたのはおよそ10年前。それ以前は、同じインド国内でも都市部で演劇活動をしていた。

 とはいえもともと演劇を専門に勉強したわけではない。ごく一般的な家庭に生まれ育ち、英語が得意だった母親の影響で外国語に興味を持った。

 「日本語で日本人と会話すると、近すぎると感じることがあります。別の言語を使うことによって、ワンクッション置かれるというか。コミュニケーションに余白が生まれる気がするんです。それが私には心地がいいなって感じました」

 教科書で読んだマザーテレサをきっかけに、東京外国語大学でヒンディー語を専攻したことが、サトコさんに運命の出会いをもたらす。

 2001年2月、大学3年生の終わりに、インドからくる劇団の楽屋裏バイトを2週間ほど経験した。その劇団こそ、後にサトコさんのパートナーとなるシャンカルさんが所属する学生劇団だったのだ。

 当時カリカット大学の演劇学部に在籍していたシャンカルさんは、サトコさんと同い年。授業の一環で作品づくり全般に関わり、舞台上ではミュージシャンとして南インドの太鼓を演奏していた。

 いつも楽しそうに前を向いている印象のシャンカルさんとコミュニケーションをとるうちに「今この瞬間をこの人と共にしたい」と直感したサトコさん。4年生になると休学し、その直感を追いかけるように、当時シャンカルさんが住んでいたケーララ州のトリシュールに向かった。

次のページ