サヒヤンデ劇場の3階にて(写真提供=鶴留さん)
この記事の写真をすべて見る

 インド南西部ケーララ州の山奥で暮らす日本人女性がいる。演劇制作者の鶴留聡子さんは、インド人の演出家である夫と自宅兼劇場を造り、暮らしている。日本語も英語も通じない。文字を持たない先住民族もいる。野生のゾウやトラが出没する。そんな場所で、なぜ鶴留さんは暮らすようになったのか。フリーライター・ざこうじるいさんが、鶴留さんの素顔に迫る――。

日本人女性が暮らす「ポツンと一軒家」

 1月末、インド南部の空港で私は冷や汗をかいていた。入国審査で「なぜ日本人がこんな場所に来る必要があるのか」としつこく怪しまれたのだ。「サトコという日本人に会いに行く」と伝えると、ようやく入国が許可され、ほっと胸を撫でおろした。

 空港から都市部を通り過ぎてくねくねとした山道を進むこと3時間。道中のレストランでもお店でも、確かに日本人は他に見当たらない。

 広大なバナナ畑を通り過ぎて車から降り、急斜面の山道を登っていくと、鬱蒼とした森の中に突如としてガラス張りの現代的な建物が現れる。扇型のユニークなつくりをしたこの建物は、民間劇場「サヒヤンデ劇場」だ。

 ここに10年ほど前から暮らしている日本人女性が「サトコ」こと、鶴留聡子さん(45)である。夫で演出家のシャンカル・ヴェンカテーシュワランさんとともにこの劇場をつくった人物だ。

 ふたりが住むのは、インド南西部、ケーララ州の山奥、アタパディ。日本人はおろか、外国人は他に見当たらず、英語も通じない。野生のゾウやトラ、オオカミも出没するという。

 「ゾウが出るのは夜だけなんですけどね。ちょうど先週も、劇場に続く橋のあたりにゾウの家族がいてシャンカルが帰ってこれない、ということがありました。時期や場所にもよるけど、うちには年に4、5回来るかなあ。フルーツがなる季節になると降りてくるようです」

 ゾウは草食動物ではあるが、人間に出くわすと警戒して攻撃的になることもあるという。東京動物園協会によると、通常インドゾウの重さは3トンから5トン。サトコさんは、自家用車をゾウにつぶされたこともあるそうだ。

家畜や飼い犬がトラに次々に襲われる

 サトコさんらが飼っていた犬のブラウニーは、5年ほど前、トラに襲われて亡くなった。

 「夜中に『キャイン』って声がして、見に来たときにはもういなくなっていて……一瞬でした。トラの姿は見ていないんですけど、地元の人に聞くと『それはトラだ』っていうんです。オオカミもだけど、トラは犬が大好物なんだそうです」

 ブラウニーがいなくなった数日後、ブラウニーの子どものパシュが裏山から獣に食べられた後の頭蓋骨を持って帰ってきたという。よく見ると頭蓋骨の欠けている前歯は、確かにブラウニーのものだった。

 それから2カ月もたたないうちに、今度はパシュのきょうだい犬も同じようにトラに襲われて亡くなった。

 それ以来、サトコさんはパシュを夜外に出さないようにしてきた。それでも数年前、一瞬の隙をついて同じように襲われたことがある。

 「キャイン」という声がしたと同時にサトコさんは一目散に駆けつけ、パシュは九死に一生を得た。その時の記憶があるのだろう、パシュは今でも警戒心が強く、野生動物の気配に敏感だ。

 「つい先日も、近所の人が飼っているヤギが40匹くらい、一晩で全滅しちゃったんです。有刺鉄線も張ってたんですけど、停電した少しのタイミングを狙って襲われたみたいです」

 トラは人間の前に姿を現さず、まさに“虎視眈々”と状況を伺い、獲物を襲う機会を狙っている。人間も夜出歩くときは2人以上で歩くのが地元の常識だ。

 日本では考えられない危険が潜むが、サトコさんは淡々と語る。

次のページ