本の中で本を読むときの興奮は、読者である自分と登場人物の行動が一致することからくる。それまで教祖暗殺のために忙しく動いていた青豆は、もう一人の男性主人公・天吾に比べると、私には退屈な存在に思えていたが、プルーストを読み出してからは、途端に彼女のパートが待ち遠しくなった。それは恐らく、読書というそもそも孤独を前提とする行為の只中で、作品を読む読者と、作品内の読者の時空が冥合したことからくる快楽なのだった。そのため、登場人物(≒作者)が熟練した読み手であればあるほど、読者はより高級な読書感覚を味わうことにもなる。例えば、『洪水』を読んだ後、一人で『カラマーゾフ』を読んでみて、想像していたより面白くなかった、と感じる可能性は十分ありうると私は思う。何故なら、『洪水』の中で読む『カラマーゾフ』は勇魚(大江)と共に読む『カラマーゾフ』だから。それは完成されたモデル・ルームの家具を一つだけ買って、自分の部屋に置いたときの幻滅ともどこか似ている。尤も、私の場合をいうと、前掲の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の主人公が『カラマーゾフ』の愛読者であることに触発されて、父の書斎に並んでいた文庫本を手に取ったのだが、自分の想像を遥かに超える面白さに軽く打ちのめされたのだった。読書の数珠繋ぎの中では、そういうことだって起きうる。
兎も角、こういうわけで、私の書く小説には無数の本が登場する。実在するのも、しないのも、一緒くたに並べておいた。理想は、本の内部に一個の図書館が現出している、そんな状態。