巨人時代の豊田清
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 現役ドラフトも終わり、プロ野球のストーブリーグも佳境を迎えている印象だが、中でもその去就に高い注目が集まっているのがライデル・マルティネスだ。今シーズンも開幕から21試合連続無失点をマークするなど絶対的な抑えとして活躍。最終的にも60試合に登板して2勝、43セーブ、7ホールド、防御率1.09という見事な成績を残して自身2度目となる最多セーブのタイトルに輝いた。

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 オフには今年で3年契約最終年ということもあって自由契約となり、巨人への入団が濃厚と報じられている。12月11日時点で正式発表はないが、移籍となる可能性は高いだろう。過去にもマルティネスのようなクローザーが他球団へ移ったケースはあるが、果たして期待通りの活躍を見せることはできているのだろうか。今回はそんな抑え投手の移籍について振り返ってみたいと思う。

 1970年代から80年代にかけての代表例が江夏豊(阪神など)になるだろう。抑えに転向したのは南海時代の1977年シーズン途中で、19セーブをマークしていきなり最優秀救援投手のタイトルを獲得した。その年のオフに監督の野村克也が退任となるとトレードを志願して広島に移籍。在籍3年間で2度の最優秀救援投手に輝いている。

 さらに1981年からは日本ハムに移籍すると、ここでも2年連続で最優秀救援投手となった。最優秀救援投手の獲得5回は赤堀元之(近鉄)、佐々木主浩(横浜)、岩瀬仁紀(中日)と並ぶ最多タイであり、両リーグでの受賞は江夏しか達成していない。また移籍した広島、日本ハムを相次いで優勝に導いたことから“優勝請負人”とも呼ばれた。抑え投手の移籍という意味では、最高の成功例と言えるだろう。

 江夏に続く成功例と言えるのが牛島和彦(中日→ロッテ)と鹿取義隆(巨人→西武)の2人だ。牛島はプロ2年目から中継ぎとして一軍に定着すると、3年目からは抑えに回り5年目の1984年には29セーブをマークして最多セーブのタイトルを獲得。1986年オフにチームが落合博満を獲得するための1対4の大型トレードでの交換要員となり移籍した。

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