張りぼてのようなホワイト環境
そんなある日、決定的な“事件”が起こってしまう。親会社の人事部から次年度の新卒採用に関する依頼が送られてきたのだ。
「グループ企業のホームページで採用サイトを立ち上げるので、職場の先輩として若い職員に登場してほしい。写真を撮って職場の感想を書いてほしい」
部長からこの依頼を聞いた神田は、烈火のごとく怒った。
「高田さん、いままでのアタシの話を聞いていました? なぜこの会社を『成長でき、若手が早々に活躍できる職場だ』などと書かなければならないのでしょうか。体裁ばかり繕って、後輩たちにウソはつけません。依頼はお断りします」
結局、この騒動は理事長のみならず親会社にも知られるところとなり、高田はメンター役を外されることになった。
翌月、退職代行と称する会社から事務所に電話が来た。
神田が退職するという。応対した部長によると、彼女の退職理由としてこう言われたそうだ。
「ゆるブラック企業だから」
高田も部長も初めて聞く言葉であったが、どうやら「過重労働や低賃金、ハラスメントなどの目に見える労働条件や職場環境には大きな問題はないものの、やる気も感じられず成長の機会もない企業」ということのようだ。
神田は在職中に次の転職先を決めていたという。これにはさすがに部長も憤った。
「最近の若い人は、タイパだ、コスパだと、さもアウトプットにこだわるかのように言うが、やりがいや成長なんて時間をかけて生み出されるものだろう。何を焦っているのか。それにしても、ストレスのかかる仕事は免除して定刻で帰らせたり、極力負担がかからないように配慮したのに、最後は代行業者からの電話一本でおしまいか。失礼な話だ。これじゃ理事長に説明できないよ」
高田も部長の気持ちは一部理解できるものの、その一方で、「やれ親会社だ」「やれ理事長だ」とヒラメのように他者の顔色を見て迎合することが、さも仕事であるかのようなこの会社のスタンスに対し、神田は嫌気がさしたのだと感じていた。新卒職員に対しても、親会社からの評価を気にしてお客さま扱いし、張りぼてのようなホワイト環境を押し付けるだけで、彼らに魅力ある職場を提供できていなかったと感じ始めていた。
「高田さん。それはそうと、口コミサイトで彼女が悪意ある投稿をしていないか、確認してくれないか。学生の間で悪い評判が立ったら困るからね」
部長の言葉を遠くに聞きながら、来年はいったい誰がメンターを担うことになるのかと、高田は憂いた。
(川野智己)