では、誰かと場をともにするたびに、私は財布を開け続けているかといえば、そんなことはない。バーでビールをごちそうになったことは数知れず、出会ったばかりの家族から食事をごちそうになったことも、星の数ほど。「持てるものと持たざるもの」の関係とは別に、「客人と主人」の関係もある。これまでに幾度も、アフリカ各地で、私は客人としてもてなされてきた。中にはたかってくるやからもいるが、私にとっても現地の人たちにとっても、そういった行為は論外であり、たかり行為をするような人は、現地の人たちからはさげすみのまなざしを受けることが多い。
だから、私のことを「友人であると同時に客人である」と思ってくれている人と飲食をともにする際は、なかなか気を使う。
2014年、ブルキナファソのボボ・デュラッソで私は、地元のラジオ局でディレクターとして働くジャンと出会った。たった一晩だったが、互いに意気投合。今年再会を果たし、彼の収録 に同行させてもらうこととなった。途中、腹ごしらえをするために食堂に立ち寄り、私が支払いを済ませた。食堂を出ると、ジャンはもごもごと私にこう言った。
「(支払いをしてくれて)ありがとう。遠く日本から来てくれたのだから、自分が払いたいのだけれど、給料日前なので金がなくて……」
客人をもてなすのは当然のことなのに、それを自分ができないことをもどかしく感じていることが伝わってきて、こちらまで申し訳なくなってきてしまう。彼が支払うのを待ったほうがよかったかもしれないとも思ったが、それはそれで、彼に負担をかけてしまう。財布を開けるタイミング、なかなか難しい。
トーゴのアベポゾに暮らす友人のカムランは、もう少し込み入っている。知り合ってから15年になる仲だが、カムランは私と外食をしたがらない。
「ユウイチはお客さんだから、こちらでもてなしたい。だから、ユウイチと外食をして、ユウイチが自分の分まで金を払うのは、耐えられない」
「その一方で、外食を振る舞う経済的な負担は、残念ながら、自分にとっては大きい」