実際、『源氏』には、五千百二十二回も「心」と付く語が頻出し、同時期の他の作品と比べて圧倒的な多さだという。物語の展開に沿って派生していく夥しい内面の諸相を、三百種以上もの心の語を繊細に選び取り、その結果、〈筆で石を刻むが如く〉、人との別れ、人の死を印象深く描写し、〈あたかも物理学のように〉、人の心を対立させて物語を展開し、不朽の文学を完成させた紫式部。その比類ない言葉遣いを、本書は五十四帖の内容を丁寧に振り返りながら、辞典のように具体的に解説していく。

 なかでも二百二十四回使われている「心憂し」は、つらい、情けない、無情だ、悲しい、不愉快だ、あきれる、厭わしい等々、「もののあはれ」を下支えする基本的な心の動詞として重視されている。それが「心憂き身」と使われる場合は、朱雀帝に入内予定であるのに光源氏と契った朧月夜の君、光源氏に降嫁した後、柏木と情を交わした女三の宮など、いずれも密通に関わってしまった女性の苦悩を表す語であると、この辺りには『源氏物語の鑑賞と基礎知識』(四十三巻、至文堂)などの知見も適宜引かれている。また、「心苦し」は現代でも使われ、〈対象の哀れな様子に、身も世もなく心痛み、心を動かすこと〉という本来の意味が残っているが、そうした意味の継承にこそ、『源氏物語』が「こころ」を伝える器となって、千年読み継がれてきたことの価値を思う。

「心の闇」という言葉も古代からあり、心の惑い、親の欲目に関連して用いられていたという。その意味を含ませて紫式部は、父方の曽祖父で三十六歌仙の一人、藤原兼輔が詠んだ一首、〈人の親の心は闇にあらねども 子を思う道にまどいぬるかな〉をなんと二十六回も『源氏』に引いている。

 主観を排して登場人物を的確に評していった第七章「主な女君たち二十五人の心」は著者の結論であり、読みどころでもあるだろう。章の冒頭、アーサー・ウェイリー訳を愛読したフランスの作家マルグリット・ユルスナールが、物事の深い意味、時の移ろい、甘美な恋、人生のはかない悲劇、見えないものを現前させる才能――この五つを紫式部の技量として挙げたことを紹介し、〈そうです、源氏物語に見たものは、本居宣長とユルスナールで同一だったのです〉と断定している。生涯をかけて物語を自家薬籠中のものとして語るのは、どれほど心地良いことだろう。その喜びも女君たちの悲しみも丸ごと手渡されるような、深き心のこもった一冊である。

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