『源氏物語のこころ』 帚木蓬生 著
朝日選書より発売中
『源氏物語』ばかりは、既成の現代語訳を読み通せば、それで終わりとはならない。全体の筋を頭に置くのはその世界への参加最低条件であって、そこからが面白いのだ。
幾種かの解説書に目を通して、一応の知識を得たつもりでも、十年、二十年に一度は必ず、『源氏』絡みの話題作が現れるのもこの作品の特別さ。しかも、社会の風潮や研究の進展によって、これほど評価や解釈が変わり続けてきた物語もないから、ブームのたびに新たな知識を得る楽しみも生じる。大河ドラマ「光る君へ」が好調な今秋は、あらためて関心を刺激されている読者も多いことだろう。
「帚木」「蓬生」という五十四帖由来の筆名を持つこの作家が、いずれ『源氏』にまつわる作品を著わす期待はあったが、先頃、全五巻が完結した十数年がかりの長編小説『香子 紫式部物語』には驚いた。大河ドラマ同様、主人公に香子、すなわち紫式部を据え、やがて彼女が綴り始める作中の『源氏物語』には、和歌に至るまで端的な現代語訳が独自にほどこされている。この『香子』で得た成果を汲みつつ、いっそう自由かつ厳密な読みを繰り広げたのが、このたびの『源氏物語のこころ』である。
東京大学でフランス文学を学び、TBS勤務を経て九州大学医学部へ入り直して精神科医となった著者は、フランス政府給費留学生としてマルセイユやパリで研修を積んだ後、故郷福岡で長年、臨床医を務めた。並行して多くの小説を創作し、高い評価を得てきたが、さらにその傍ら、学生時代から『源氏物語』に関心を寄せ、原文に親しみ、知識を求め続けていたのだった。そうした実人生で培った思いのすべてが、本書に注ぎ込まれた感がある。
〈此物語は、殊に人の感ずべきことのかぎりを、さま〴〵かきあらはして、あはれを見せたるものなり〉。このように『源氏』の核心を「物のあはれ」と言い当てた本居宣長が、やはり市中の医者として、人間を診る立場でもあったことを思い出しておきたい。平安の貴族社会の片隅で、紫式部は多くの女君の恋と悲しみを観察しては記憶に溜め、無数の「こころ」のバリエーションをたった独りで書き分けた。それを可能にしたのは、面白いだけでなく悲しみに効く物語は書けないものかと精進した故でなかったか。精神科医である帚木氏もそれを察知したからこそ、「こころ」に照準を絞ったのでは……と考えてみたくなる。