
今年も10月24日にプロ野球ドラフト会議が開催される。近年は指名された選手のほとんどが入団しているが、過去には1度ならず指名を拒否した選手も何人かいる。そして、過去最多となる指名拒否4度を経て、5度目にプロ入りしたのが、中日・藤沢公也だ。
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最初に指名されたのは、八幡浜高時代の1969年。甲子園には出場できなかったが、2年秋の愛媛県大会で優勝投手になり、四国大会でも丸亀商の井原慎一郎(元ヤクルト)と延長14回を互角に投げ合った四国地区屈指の右腕は、プロのスカウトから熱い視線を送られていた。密かに八幡浜工の内野手・河埜和正の獲得に動いた巨人のスカウトが現地で藤沢目当ての他球団のスカウトと鉢合わせし、咄嗟に「ウチも藤沢」と口裏を合わせたという話も伝わっている。
そして、同年のドラフトで、ロッテが3位指名。高校生全体で11番目の高評価ながら、藤沢は入団を断り、社会人の日鉱佐賀関へ。その後も71年にヤクルト11位、73年に近鉄4位と計3度の指名も、「3回目までは、ハッキリ言って、プロでやっていく自信がなかった」という理由から、誘いを断りつづけた。
だが、76年に日本ハムから2位指名されると、「最初は入ってもいいと思った」と初めてプロ入りに前向きになる。同年は都市対抗ベスト8、初出場の日本選手権でも準優勝とチームに貢献し、プロでやっていける手応えを感じていた。
ところが、仮契約寸前までいきながら、契約金が削られるなど、話し合いがこじれたことから、「ゴタゴタするなら行きたくない」と入団を断った。「高校生(崇徳高・黒田真二)が1位というプライドの問題もあった」という。
4度目の拒否で、「さすがにもう指名はないだろう」とあきらめかけながらも、「もし希望どおりの球団に指名されたら、プロ入りを考えてもいい」と心が揺れた。そんな矢先の翌77年、意中の球団だった中日が1位で指名してきた。
「もう26歳。プロで通用しなければ、人生もそれっきり」とためらう気持ちもあったが、稲尾和久投手コーチに説得され、「野球をやっていたら、誰でも一度はプロでやってみたい気持ちはある」と入団に大きく傾く。中日が「自分を本当に欲しいと言ってくれた」ことも決め手となった。