だが、今度は会社から「待った」がかかる。翌年のアマチュア日本一を目指していたチームにとって、エース・藤沢は必要不可欠の存在だった。

 こうした事情から、中日との交渉もいったん12月16日に打ち切られたが、当時のルールで、社会人選手の交渉期限が翌年のドラフト前々日までと定められていたことが、“5度目の正直”でのプロ入りにつながった。

 翌78年11月6日、1年遅れで中日入団が決まった26歳のルーキーは「会社が快く送り出してくれるというので、プロ入りに踏み切った。中日は好きなチームなので、一度プレーしてみたかった。速球主体にシュート、スライダー、カーブの持ち味を生かし、根性プラス頭脳の星野(仙一)さんを目標に頑張る。歳が歳だけに入団1年目が勝負」(11月7日付・中日新聞)と力強く抱負を語った。

 だが、社会人を代表する本格派も、翌79年のキャンプイン早々挫折を味わう。ブルペンの隣で入団2年目、19歳の小松辰雄が段違いに速い球を投げるのを見て、「あの球を投げていて20勝できないのならば(小松は前年0勝0敗、防御率11.25)、プロっていう世界はものすごいとこだ」と自信を失いかけた。

 そんな藤沢にパームボールを覚えるようアドバイスしてくれたのが、稲尾コーチだった。130キロ台の直球でも、遅い球を織り交ぜれば、打者には速く見える。安定した職場を辞め、生活をかけてプロ入りという道を選んだ藤沢は、必死の思いでスポンジボールを使って、ひたすら遅い球を投げる特訓を重ね、“パームの藤沢”と呼ばれるまでに磨き上げた。

 同年は4月10日のヤクルト戦で6回途中まで2失点に抑え、初先発初勝利。7月4日の巨人戦では三塁を踏ませず、“最遅”71キロのスローボールでプロ初完封を記録するなど、13勝5敗、防御率2.82の好成績で新人王を受賞し、最高勝率のタイトルも獲得した。

 だが、キャンプで人一倍の練習量をこなして臨んだ2年目は、右足を痛め、パームを投げるときに生命線となる右足の踵が上がらなくなった影響で、1勝15敗に終わる。好投しても打線の援護がなく、1対2で惜敗した試合が3つもあり、「勝つことがこんなに難しいこととは……」と痛感させられた。

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「プロに行かなかったら野球人生では悔いが残っただろう」