武者小路実篤さんの死去とロッキード事件の角栄・児玉・小佐野各氏の関係を組み合わせた「仲よき事は美しき哉」(1976年4月30日号)

 そして76年に週刊朝日の巻末で「ブラック・アングル」がはじまった。表現方法がまた多彩だった。浮かんだアイデアに合わせ、有名画の模写絵や切り絵、斜線絵、ヘタウマ、浮世絵などを描き分け、川柳や狂歌、替え歌、語呂合わせで鍛えた言葉を添える。「週刊朝日を後ろから開かせる男」の誕生だった。

 81年には同誌で「山藤章二の似顔絵塾」もスタート。「ブラック・アングル」は自らの作品を発表する場だが、こちらは塾長として新しい似顔絵の楽しみ方を広めている。

 描かれた人が喜ぶファンレターのような似顔絵は選ばない。批評性があり、「私にはこう見える!」というキメツケの面白さが光る作品ばかりを入選させた。描かれたモデルはムッとするが苦笑する、他誌の似顔絵コーナーとは全く趣が異なる作品が誌面を賑わせ、個性的な才能がどんどん集まってきた。

仙人のような背中

 入選が続くと特待生に格上げされ、年間の大賞作家が選ばれる。山藤さんは大賞作家を分類している。風刺の軽やかさを超えたどす黒いものまで感じさせる「毒絵派」。似顔絵には必要不可欠な目、鼻、口を描かず、それでも誰だか分からせる「物体派」。賞選考のゲスト審査員としてきた北野武さんに「魚の開きみたいな絵、ピカソのゲルニカみたい」と言わせた「アート派」など、表現方法は多種多様に広がっていった。

 97年、「たけしの誰でもピカソ」で似顔絵塾とのコラボ企画が始まると投稿はさらに増えた。筆者の私が似顔絵塾の事務局になったのは99年。当時は、毎週400枚を超える投稿作が編集部に届いた。「ブラック・アングル」の打ち合わせを終えた山藤さんが編集部に現れ、整理済みの投稿作の山を紙袋に入れて持ち帰る。その背中は仙人のようでなんだかかっこよかった。

 さすがの山藤さんも70歳代半ばになると疲れが見え始めた。長年「ブラック・アングル」や似顔絵塾の担当編集者だった村井重俊さんはこう語る。

「晩年はやはりコンプライアンスに苦しめられたと思います。風刺は斬ることが必須ですが、以前は許されたラインが狭く厳しくなっていく。息苦しかったでしょう」

 21年に勇退を決め、二つの長寿連載の歴史に幕を下ろした。

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