9月30日、山藤章二さんが亡くなった。87歳だった。週刊朝日で「ブラック・アングル」と「似顔絵塾」を40年以上連載。様々な作風を駆使した風刺画やパロディーを発表し、風刺画や似顔絵文化のすそ野を広げた功績は大きい。 AERA2024年10月14日号より。
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山藤さんは1937年、東京・目黒に生まれた。4人きょうだいの末っ子である。生後間もなく目黒駅の助役だった父が他界。父の縁で、母は目黒駅の売店で働き一家を支えた。
高校時代は美術部に入部。バンカラな先輩が一心不乱に石膏像のデッサンをしている姿を見て感銘を受けた。画家になる勉強もしたが、ポスターデザインやパッケージデザインといった商業美術の世界なら堅実に食べていけることを知り、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)のデザイン科に進学した。
在学中に若手の登竜門と言われる日本宣伝美術会展で特選(次席)に。グランプリはプロになってから良きライバルとなった和田誠さんである。
卒業後は、松下電器産業(現・パナソニック)の宣伝を担うナショナル宣伝研究所に入社。数々の広告賞を受賞したが「絵を描きたい」「“俺の絵”と言える絵で勝負したい」という思いが湧き上がり、4年で退社する。
フリーになる不安もあったが、5歳年上の妻、米子さんが山藤さんの才能を信じ、背中を押し続けてくれた。69年、野坂昭如さんのエッセイ「エロトピア」(週刊文春)の挿絵を担当したことが大きな転機となる。
挿絵のタブー仕掛ける
異色の新進気鋭作家の野坂さんに、山藤さんは挿絵のタブーを仕掛けた。まずは野坂さんの似顔絵を描いて茶化した。さらに挿絵のなかで、野坂さんの文章の揚げ足を取ったり、「原稿が遅いッ!」と書いたり。すると野坂さんも面白がり、次の原稿で「山藤の野郎め」と応じる。2人の掛け合いは話題を集め、70年に講談社出版文化賞、71年に文藝春秋漫画賞を受賞した。
山藤さんはその時の心境を、朝日新聞の「語る 人生の贈りもの」でこう語っている。
「挿絵の世界を去ったぼくは、イラストという鉱脈を見つけたのです。『俺の絵』のしっぽを、ようやくつかまえた。そんな思いでした」