1996年のドラフト3位で巨人入りした三沢興一
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 巨人はこれまでルールの盲点をつく“抜け道戦略”で補強をしてきた歴史がある。近年では、FA人的補償のプロテクト外しと思われる主力選手の育成契約が批判の的となり、2018年オフの上原浩治の自由契約→再契約も「プロテクト外しではないか?」の憶測を呼んだ。そして、過去にも、他球団の主力や新人の獲得をめぐり、数々の“抜け道入団”を行っている。

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 まず、“球団騒動史”の1ページ目を飾るのが、南海のエース・別所昭(毅彦)の引き抜き事件だ。

 1947年にNPB記録の47試合完投で30勝を挙げた別所は、他球団に比べて“渋ちん”の球団の待遇に不満を抱いていた。

 別所は翌48年も26勝を挙げ、優勝に貢献したが、同年で選手契約が切れることから、再契約の条件として、「年俸をよそと同じレベルにしてほしい」「一軒家が欲しい」(当時のスター選手は再契約の際に家や車を貰う例があった)と要求した。だが、球団側は別所一人だけを特別扱いできないと突っぱねた。

 そんな矢先、巨人が別所に接触し、契約金を提示した。46年から3年連続V逸の巨人は、別所を引き抜いて、投手力強化を図ろうとしていた。

 まだ統一契約書が存在しなかった時代、契約が切れた選手は、所属球団と継続して契約するのが慣例だったが、法的には選手が自由に球団を選べるという保有権の曖昧さに付け込んだ形だ。

 その後、別所は南海に「巨人と同じ条件なら残留する」と持ち掛けたが、両天秤にかけられた形の球団側は態度を硬化。交渉が喧嘩別れになると、別所は上京して巨人と仮契約を結び、12月に巨人入りが報道された。驚いた南海は、要求に応じるから戻るようにと説得したが、別所はすでに巨人と契約を済ませたとして応じなかった。

 そして、翌49年1月に南海、2月に別所が日本野球連盟に提訴する騒動に発展。連盟は3月17日、南海に10日間の優先交渉権を与え、期間内に話がまとまらなければ、別所が所属球団を自由に決めて良いが、ペナルティとして開幕から2カ月間出場停止という裁定を下した。ルール違反の事前交渉を行った巨人にも制裁金10万円が科せられた。

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夏の甲子園準優勝左腕も“抜け道”で獲得