社内を見渡して実感したのは、「次世代のエンジニアにフィルムカメラのノウハウを引き継ぐには今がぎりぎりのタイミング」だということ。アナログ技術を知る多くの社員が定年にさしかかっていた。実際、フィルムカメラの手巻き機構の再現に不可欠なアドバイスをもたらしてくれた社員は、イチナナの発売直前の今年6月に定年で会社を離れた。
エンジニアの内面を変えた「メカとしての魅力」
アナログの技術継承はエンジニアの内面にも微妙な作用をもたらした。
「僕はこの企画を信用していません」
最初に根本的な疑問を鈴木さんにぶつけたのは、ボディの開発リーダーを務めた真田慎一郎さん(46)だ。この時の思いを真田さんはこう説明する。
「技術者は常に最先端を追求しています。今回のように昔の技術に戻るというのは違和感があるというか、ちょっと我慢できないというか。なぜそんなことをやらなくちゃいけないのか、という思いが正直ありました」
便利で高度な性能を追い求めるのが技術者の誇り。やるなら最先端でしょう、と真田さんは鈴木さんに詰め寄った。そんな真田さんを変えたのは、手巻きのフィルムカメラの「メカとしての魅力」だった。過去に製造されたフィルムカメラを分解し、機械的な機構はデジタルカメラよりも複雑で優秀だと実感した。忘れがたいのが、図面上では理解できない部品の役割に気づかされた経験だ。
手巻きの機構の図面を3次元CADにデータ移行していた時、どう見ても不要な部品が一つあった。ねじ込んで何かを調整するための部品のようだが、どのパーツとも接触していない。カメラを分解して実際に動かしてみてもよく分からない。図面には制作した設計者の名が付されている。その社員は8年前に定年退職した、真田さんが新人時代に指導を仰いだ先輩だった。
先輩を会社に招き、「この部品は何のためにあるんですか」と真田さんが尋ねると、OBは笑みを浮かべ、「これが味噌なんだよ」と説明してくれた。その部品は、フィルムのコマ送りを安定させるのに欠かせない機能を担っていた。
「機構を熟知していないと思いつかない、本当によく考えられたパーツでした。このやり方でこの機能をもたせるのか、と感服しました」(真田さん)
真田さんはイチナナを開発した感慨をこう語った。
「機械だけで動かせる機構を再び世に送り出せたことは機械設計者冥利に尽きます」