ひるがえって情報には、情報の「地」(ground)と情報の「図」(figure)というものがある。「地」は情報の背景的なもので、分母的だ。「図」はその背景にのっている情報の図柄をさす。こちらは分子的だ。
私たちは、おおむね情報の「図」だけに注意しながら日常生活をしているといってよい。背景はあまりにも連続しすぎているので、それを省いてしまうのだ。だからこそ、きのう一日のことを思い出すばあいは、総計九〇〇分の情報の「地」から、圧縮した五分ぶんだけの情報の「図」を取り出せる。
私は一時期、ある高名な精神医学者と仕事をともにしたことがあるのだが、そこでずいぶん興味深い現象を観察させてもらった。いまおもえば、貴重な体験だった(亡くなられた岩井寛さんである。岩井先生の最期について『生と死の境界線』という一冊をまとめた)。
ある患者は「この机の上にあるものを言ってください」という医師の質問にたいして、コップやケータイだけの情報の「図」をまったく抽出できない。「ええっと、机の端に黒い盛り上がったものがありますね。それが少し曲がっていて、紙のような文字が書いてある平べったいものとつながっていまして、そこから少し離れているんですが、白くて丸い明るいものがじっとしていますね」などというふうに、情報の「地」と「図」の関係が曖昧になっていく。