「オレンジページCooking」の撮影風景。「オレンジページnet」編集長の小栁恵理子は言う。「亜希さんの料理は美味しいだけじゃなく『誰かのおなかを満たしたい』『食べさせたい』という思いがすごいんです」

貧しかった子ども時代 何もかもが羨ましかった

「亜希ちゃん印」カレーの共同開発者でトータル・ワークアウト代表の池澤智(48)は、25年来の友人として亜希を見守ってきた。

「今回のカレーの発売イベントでもマスメディアはよくも悪くも“清原さんの~”という部分に注目する。亜希さんはそういう視線も理解した上である意味、覚悟を持って活動している。彼女をしたたかだ、という人もいるんです。でもいや、そんな考えでこれだけのことはできないよ?!って言いたい。なにより子どもたちが父親のことを悪く言わないことがすべてだと思います」(池澤)

 その通りだと、亜希に対面するとしみじみ思う。誰に対しても気さくに語りかけ、自ら胸襟を開き、相手の気持ちをほぐす。亜希がブランドディレクターを務めるアパレルブランド「AK+1」でトータルマネージメントを担当するビームスの須藤衣麻(43)にとっては、仕事だけでなく子育ての先輩としても頼りになる存在だ。

「亜希さんは“陽”の雰囲気しかない方。お目にかかってからこの11年、楽しいことだけじゃなかったと思いますが、いつだって本質は変わらない。仕事も絶対に手を抜かないし、いつも両手を広げてくれているような感じで、みんな亜希さんに人生相談をしたくなっちゃう。ブランドのイベントでトークショーをすると、みなさん泣きながら亜希さんの話を聞いていたりするんです」(須藤)

 当の亜希は笑いながら言う。

「やっぱりここまで歩んできた自分の生き方、考え方が全部自分の肥やしになっている。いまインスタグラムに写真をアップすると『亜希さんの手が好きです』って言われるんです。シワッシワだし全然綺麗(きれい)じゃないんだけど、めっちゃ嬉しいんですよ。生きてきた証しじゃないですか。綺麗に見えるほうがそりゃあいいけれど、いまはそれよりもっと大事なものが写真に写る自信はある。これは育て上げて、作り上げて、いろんなことをしてきた手なんだって」

 最強の「母ちゃん」はどのように作られたのか。

 亜希は1969年、福井市に生まれた。3歳上の兄がいる。小学校低学年のころは歌が好きな目立ちたがり屋だった。人生が変わったのは小学4年のとき。両親が離婚し、母・鈴枝と兄との3人暮らしが始まったのだ。

 引っ越し先は6畳と台所二間の風呂なし公営住宅。母は建設会社の事務職をして子どもたちを養ったが、暮らしは楽ではなかった。後に亜希は息子たちに当時の話をよく聞かせたと言う。

「息子が『今日のマグロ少ないね』なんて言うと『マグロなんて食べられなかったんだから! ツナ缶にお醤油(しょうゆ)かけて食べてたんだから!』ってつい言っちゃうんです。『出た、貧乏自慢』って言われるけど、でも教えたいんですよ、あの経験を」

 友人の家に遊びに行くと、おやつのショートケーキも洋服も何もかもが羨(うらや)ましくみえた。帰り道、ボロボロの家へと足が向くのが悲しかった。嫉妬心や自分の恵まれない環境への負の感情を恐ろしいほど知った。だが両親への怒りは感じなかった。

「母が本当に一生懸命だったからだと思います。少ないお金でやりくりしているのが見えるからこそ、私がやるしかない、みたいな使命感があった」

 亜希の「母ちゃん魂」の原点はすべて母・鈴枝にある。明るく天然な性格は母から譲り受けた。母は145センチほどと小柄ながらふくよかで、化粧もせず髪はふわふわ。派手さや贅沢(ぜいたく)とは無縁だったが、とにかく笑顔が素敵だった。

「歯並びも綺麗で、笑うと口角がガーッとあがる。美人ではないけれど、こんなに可愛い人っているんだと、私のなかで初めて感じた人です」

 母は子どもたちの前で父の悪口も言わなかった。

「どうしたら母を幸せに、贅沢な暮らしをさせてあげられるか」ばかりを考えていた中学時代、思いついたのが、当時ブームだった芸能界のオーディション。中3の夏に「ミス・セブンティーンコンテスト」に応募し、地区大会を勝ち抜き、母と東京行きの飛行機に乗った。当時42歳の母は飛行機初体験。その嬉しそうな顔を見たとき「私が頑張ればハワイにだって連れていってあげられるかも」と心のマグマがグワッと動きだした。

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