テレビ番組の企画でバイオリン演奏にチャレンジして以来、定期的に習っている。著作のタイトルも筆で何十枚も書く。何事にも全力投球、が亜希のスタイルだ

野球と息子がきっかけで 清原との交流が再開する

 08年から雑誌「STORY」のカバーモデルとして人気を博す。同年、清原は現役を引退。夫の状態が徐々に悪くなっているのは感じていた。だが子育てに没頭し、いろいろなものを「見ないようにしていた」と振り返る。

「いまならずっとやってきたこと(野球)が突然なくなる日常がどんなに空虚なものかわかる。でも結局、苦しみは本人にしかわからない。当時は燃え尽き症候群かな、なにかのタイミングでなんとかなるかな、と思っていた。それに週刊誌に書かれたようなひどいことはなかったんです。家で発散するようなことはなかった」

 それでも週刊誌で違法薬物使用疑惑が報じられ、2014年に子どもたちを連れて家を出た。すぐに離婚が成立。だがマスコミに追いかけられた日々も、いまは「忘れちゃった」と笑う。

「私、離婚後に一番『綺麗だね』って言われていました。たぶん負けず嫌いなんです。子どもたちにも言っているんですが、人から見たら不幸そうなときほど元気に見せることで、周りをシャットアウトできる。『あの人、可哀想(かわいそう)だね』って言われるときほど元気でいれば『恐れ入りました!』って相手をねじ伏せられるんだよって」

 16年に清原が覚醒剤取締法違反で逮捕されたときはさすがに衝撃が走った。家族3人で友人の家に身を寄せたことで、気持ちが安定したという。

「なにより子どもたちが、学校を一日も休まないって言うんです。え? この状況で? 恐れ入りました!って私のほうが教えられた」 

 子どもたちへの影響を考えると腹が立つこともあり、離婚後の連絡は絶っていた。そんな思いが変化したのは19年。次男・勝児の一言だった。

「あぱっち(父)に野球を教わりたい」

 野球はずっと父と息子たちの共通点だった。家族旅行の際にスーツケースにまず入れられるのはボールとプラスチック製のバット。正吾は勝児が生まれた病室でペットボトルをバットに銀紙をまるめたボールを打って遊んでいた。

 弁護士を通じて清原に連絡を取り、再会の場を設けた。清原は著書『薬物依存症の日々』(文春文庫)で、薬物依存症と重いうつ病に苦しむ自分に、家族との再会がどれだけ大きな助けとなったかを切実に綴っている。亜希は言う。

「きれい事じゃなく、子どもたちに悪口も言いましたよ(笑)。でもやっぱりリスペクトはあったので、そこは絶対に落とさなかった。『いろんなことしちゃったけど、あの人は本当に凄(すご)い人なんだよ』っていう言い方はしたかな」

 うつ病や依存症の専門医の教えを受け、いまも家族でサポートを続けている。

「この病気はアップダウンがよくない。ものすごく楽しいことがあると一人になったときドーンと落ち込んでしまうから、ゼロか100かではなく常に50℃くらいの温度で接してあげることが優しさだと教わりました。適度な距離を保ちながら、ときどき普通に『お蕎麦食べよう』とか」

 そんな亜希を前出の池澤は「いつも誰かのために生きている人だと感じる」と言う。

「清原さんだったり、お母さんだったり、子どもたちだったり。私も彼女からエネルギーをもらっている。人って年を重ねるごとにその生き方が顔に表れますよね。彼女がずっと美しいのは、やってきたことが表れているからなんだと思うんです」

 亜希は「いやいやいや」と笑って言う。

「みんな同じですよね。特に年を重ねれば、お互い支え合うしかない。夫婦も友人も子どもとの関係も形が変わっていくことが結局、人生。そしてどんなに形が変わってもそれは続いていく。それがこれからの自分のテーマかな、と思っています」

 次男・勝児は来年、大学進学で家を出る。一人になったこれからをどう生きるか、新たな世界がいま、亜希の目の前に広がっている。

(文中敬称略)(文・中村千晶)

AERA 2024年8月26日号

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