〈AK+1〉で須藤衣麻(奥の右から2人目)やスタッフと打ち合わせ。「亜希さんは本当にゼロから一緒に物づくりをしてくれる。私たちの『いま着たい』を本能で察知しているようで驚かされます」(須藤)

東京に向かうバス停で 母から渡された化粧品

 応募総数18万350人のなかから、決選大会に進む16人に選ばれた。受賞はしなかったが「いい経験だった」と素直に思えた。福井に帰ると電話が鳴った。「3人組でデビューしませんか」。母は反対しなかった。

「あなたもわかっているように、ここにいたって何もない。自分の人生なんだから自分のやりたいようにやりなさい、と母は言ってくれました」

 中3の冬にデビューし、東京で寮生活をしながら高校に通うことになった。出発の日、空港行きのバス停で母から缶を渡された。中にはファンデーションや口紅などのメイク道具が入っていた。高級品ではなかったが、化粧などしたことのない母からの精一杯の気持ちに涙が止まらなかった。

 亜希がデビューした1985年はアイドル全盛期。斉藤由貴が「卒業」で大ブレークし、先輩の早見優、松本伊代らが華々しく活躍していた。売れっ子とそれ以外では現場でのお弁当も違う。亜希たち3人組にブレークは訪れず、1年半足らずで「解散」を言い渡された。16歳で芸能界の残酷さが身にしみた。

「結局私ってこうなっちゃうんだなとは思ったけれど、挫折という言葉はふさわしくない。大人になったらもっとつらいことがいっぱいあったから」

 高3でモデルの仕事を経験し「やっていけるかも」と感じた。卒業後はモデル事務所に所属しながら、蕎麦(そば)屋や焼き鳥屋などのアルバイトを掛け持ちした。どこに行っても「おはようございます!」と誰よりも大きな声で挨拶(あいさつ)し、場を盛り上げるのが得意な亜希は人気者になった。

 現在、東京・広尾で名店と名高い蕎麦屋「三合菴」を営む加藤裕之(57)は、亜希のアルバイト時代を知るひとりだ。「竹やぶ」で蕎麦修業していた26歳のころ、亜希が給仕担当で入店した。

「テキパキして頭も切れるなと思いました。一を聞いたら十を返してくれるし、こちらが意図することをくみ、かつプラスαをしてくれるというか」

 付き合いのあるいまも当時も深い話をしたことはない。それでも当時から彼女の明るさのなかに相当な苦労やがんばりを感じていた。

「確実に何かを積み上げたい、という思いを持って一生懸命に生きている方だと思う。僕からみても“かっこいい”の一言に尽きますね」

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