「亜希ちゃん印 無水でつくった満足カレー」の発売記念イベントで。「こういうの、結婚会見みたい」「やめなさい(笑)」(池澤智・左)と、絶妙な掛け合いで、会場を笑いに包んだ

「この人を支えたい」 結婚後は料理でサポート

 飲食店でのアルバイト経験はその後の料理の基礎になったと亜希は言う。

「焼き鳥屋ではタコ飯が人気だったんです。なぜそんなに流行(はや)るのかな?と、洗い場でフライパンにこびりついたご飯をこそげて味見をした。いまもその味を再現したレシピを使っています」

 25歳ごろからモデルの仕事が軌道に乗り、母をハワイに連れて行くこともできた。そして1998年の8月、知人の紹介で清原和博と出会った。

 結婚までの1年半で思ったのは「この人を支えたい」ということ。当時、西武から巨人に移籍していた清原はケガに悩まされてもいた。前出の池澤は駆け出しのパーソナルトレーナーとして、99年に米・シアトルに自主トレにきた清原をサポートし、結婚前の亜希に会っている。

「清原さんはやり慣れないトレーニングや食事でかなりストレスをためていたと思うんです。そんなとき『彼女が来るから。べっぴんだけどビビんなよ』と言われて、空港に亜希さんを迎えに行った。本当に人生で初めて見る美人だ!と思いました」(池澤)

 しかし気取ったところなど皆無でとにかく明るい。旅行気分で来たのではなく「彼のためになることをしたい」とランニングにも付き合っていた。

「よく耐えているな、と思ったこともあったけど亜希さんは楽しそうなんですよ。『1万円の桃を買ってこいって言われちゃった。ないよね? でも絶対見つけてやる』と笑って出かけていくんです」

 実際、亜希は楽しかったという。結婚後は自分が作った料理がアスリートの体を形成し、パフォーマンスにつながることを知った。料理教室にも通い、米の研ぎ方や出汁(だし)の取り方も学んだ。

「ホームランを打ったら『あれを食べたからかもしれない』とか、えのきを残すと調子が悪いなとか。結果を出す人だったからこそ、私も料理がどんどん面白く、好きになったんだと思います」

 だが結婚3年目に悲しい別れが訪れる。母・鈴枝が腎臓がんで亡くなったのだ。60歳だった。病気などしたことがなく「おしっこが赤いけど、スイカの食べ過ぎかしら」くらいの呑気(のんき)さだった。がんの発覚後、福井から東京に呼び寄せ、兄とともに亡くなるまでの10カ月を一緒に過ごした。悔いが残らないといえば嘘になる。最後まで病名を伝えず、福井に帰る予定も立てていた。もし伝えていればもうちょっと最後に踏ん張れたかもしれない。自分たちに最後の言葉を残すこともできたかもしれない、といまは思う。だが当時はそれが自分にできる精一杯だった。

 母の死から2カ月後に長男・正吾が誕生。「母の命を授かってくれたと救われる思いだった」と亜希は言う。次男・勝児が2歳のとき、モデルの仕事のオファーが舞い込んだ。結婚後は一切表に出ず、裏方と子育てに徹してきた。迷いもあったが清原に背中を押された。

「男の子はお母さんが綺麗で頑張っている姿が武器になる。うちの母ちゃんすげえんだぞ、って。だからやったらいいんじゃない、と言ってくれて」

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野球と息子がきっかけで 清原との交流が再開