8月も終盤戦です。最近「AERA dot.」で掲載された記事のなかで、特に読まれたものを「見逃し配信」としてお届けします(この記事は7月11日に「AERA dot.」で掲載されたものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。
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日露戦争・日本海海戦は世界の海戦史上でも例のない完勝だった。それは徹底した砲撃訓練戦術の研究、火薬や信管の開発など入念で周到な準備に支えられた連合艦隊がもたらしたものだ。世界が驚嘆した日本海海戦における日本の秘策を4回にわたって解説する。1回目は「VSバルチック艦隊」。(『歴史道』Vol.33「日清・日露戦争史」より)
VSバルチック艦隊
ジノヴィ・ロジェストヴェンスキー中将率いるロシアの第二太平洋艦隊(通称バルチック艦隊)が、バルト海に面したリバウを出航したのは明治三十七年(1904)十月十五日の朝であった。目指す極東のウラジオストクまでは約1万6400カイリ、3万㎞余の大航海である。
皇帝ニコライ2世が最高海軍会議でバルチック艦隊の極東派遣を決定したのは明治三十七年四月三十日だった。日露が開戦して約2カ月、満州と遼東半島の戦局は日本軍優勢で、憂慮すべき状況だった。そこでロシア当局は旅順とウラジオストクの旅順艦隊を援助し、日本から制海権を奪還するためにバルチック艦隊の極東派遣を決定したのだ。同時に旅順艦隊を第一太平洋艦隊と改称し、バルチック艦隊を第二太平洋艦隊と改称した。
十一月初め、艦隊はヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の要衝モロッコのタンジールで二手に分かれた。ドミトリー・フェリケルザム少将率いる吃水の浅い艦船はスエズ運河を通り、ロジェストヴェンスキー中将率いる主力は南アフリカの喜望峰に迂回するためである。
途中、主力艦隊は暴風雨に遭遇するなど苦労しながらも、十二月二十九日にインド洋のマダガスカル島北端のノシベ島に錨を下ろした。ここでフェリケルザム支隊と合流する予定になっていた。フェリケルザム隊が到着したのは翌明治三十八年(1905)一月九日だったが、艦隊はすぐに出航できなかった。本国から「出航を待て!」との指令が出たのだ。
理由は旅順のロシア軍が降伏し、旅順艦隊も壊滅したため、新たにニコライ・ネボガトフ少将を司令官とする第三太平洋艦隊を編制したから、マダガスカルで到着を待てというのである。