――救いになった存在はいらっしゃいましたか。
家族もそうですけど、野村克也さんですね。妻の沙知代さんがオーナーを務める少年野球チームの「港東ムース」で中学時代にプレーしていたんですけど、その時にノム(野村克也)さんに「念ずれば花ひらく」と書いてもらった色紙をいただきました。その言葉を支えに野球をしていましたし、今も額縁に入れて実家に飾っています。
ノムさんが亡くなる2週間前に、僕が出演したテレビ番組にゲストでいらっしゃって、「おまえの勝ちだ。おまえと星野(仙一)だけだ。人の記憶に残るのがどれだけ大変なのか。すごいことやったよ」というお言葉をいただいて。北京五輪でエラーした事実は変わらないけど、向き合い方が180度変わりました。事実は一つだけど、解釈は無数にある。ポジティブに捉えられるんだなって。
星野さんも恩人です。楽天の監督をされていた時にご挨拶に行ったら、「今日もレフト守ってくれよ。ウチが勝てるから」って(笑)。でも、この言葉も優しさですよね。
ワインを飲んだ後に試合
――G.G.佐藤のキャラクターは最後まで演じていたんですか。
いや、西武を退団してイタリアでプレーした時に人生観が変わりました。仕事をしながら副業で野球している選手がほとんどで、試合は週に2日だけ。土曜はダブルヘッダーで、1試合目の後に相手チーム、審判とランチをするんです。パスタ、ピザが出て審判もワインを飲む。だから2試合目はストライクゾーンがメチャメチャ広がって。「これがイタリアンベースボールだ」って言っていました(笑)。