斎藤雅樹(元巨人)がエースだった82年夏、第5シードの同校は、第1シードの上尾が敗れるなど、有力校が相次いで姿を消すなか、連日接戦を勝ち抜き、初の決勝進出。相手はノーシードから勝ち上がってきた谷だった。

 2回に犠飛で先制した市立川口だったが、「甲子園まであと1勝」の思いがプレッシャーとなり、3回以降、追加点を奪えない。一方、熊谷は、「甲子園なんて夢のまた夢」(石川孝雄監督)と無欲でぶつかってきた。そして、1対1の8回、4連投の斎藤が2死満塁から2点タイムリーエンタイトル二塁打を打たれ、甲子園は幻と消えた。

 87年にはプロ注目の右本格派・牛山晃一(元阪神)を擁して前年秋の県大会で優勝。元阪神の投手・内山清監督も「この戦力なら甲子園も狙える」と期待したが、夏は5回戦で敗れた。翌88年夏も、準決勝で、高校通算56本塁打の山口幸司(元中日)らの強力打線で春の関東大会を制した第1シード・大宮東に7対2で快勝。甲子園に片手がかかったように見えた。だが、決勝で浦和市立(現市立浦和)の“伸び伸び野球”の前に1対7で敗れ、あと1勝に泣いた。

 89年夏は201センチの長身右腕・田村昌利の投打にわたる活躍で8強入りも、準々決勝で、川越商(現市立川越)の“完全試合男”岡崎淳二との投手戦の末、0対1で惜敗した。そして、97年夏にも大内健弘の粘投で3度目の決勝進出。センバツ出場の春日部共栄と7回まで0対0の投手戦を演じたが、8回に死球とボークをきっかけに決勝点を許し、0対1で“3度目の正直”ならず。

 その後、13年夏にも準決勝で川越東に敗れるなど、花咲徳栄、浦和学院ほか強豪ひしめく厚い壁に夢を阻まれつづけている。

 前出の埼玉同様、神奈川も慶応が昨夏全国制覇するなど、有数のハイレベル地区だが、そんなハードルの高さに半世紀近くも挑みつづけているのが、向上だ。

 76年夏、大会前はノーマークだった同校は、3回戦のシード校・藤沢商戦でエース・小清水薫が9回2死、逆転サヨナラ2ランを放ち、勢いに乗った。小清水は準決勝の多摩戦でもノーヒットノーランを記録し、初の甲子園まであと1勝となった。

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今年も準決勝に進出したがまたもや!?