多摩川サイクリングロードを小海遥と走る。1キロ3分45秒から入る14キロ走。「最近、電動機付きに変えてもらって」という自転車だったが、この日は充電に失敗、かえって重くなった

 第一生命に入ったのは、アトランタ五輪の2年前。選手兼コーチとして、だった。浜田に続き京セラを退社、上京して浜田の家に居候していた時に陸連から紹介された。1番が好きだから、「(社名に)“一”が入ってるっていいな」と、条件も聞かずグラウンドも見ずに入社した。

 才能を感じた選手がいて、パートナーにして練習した。が、その選手の結果が出ない。翌年の北海道マラソンは有森が優勝、両足手術からの“復活”だった。かたやその選手は、余力を残しゴール。「このままではいけない」と強烈に思った。選手は片手間では育たない。育てることに全力を捧(ささ)げよう、と。競技者としてギラギラした気持ちが湧いてこない自覚もあった。「また五輪でゴールできたら死んでもいい」と真顔で語る有森とは決定的に違っていた。次の五輪は目指さない。腹を括(くく)ったところで、「来春から監督を」と提案があった。就任はアトランタの3カ月前だった。

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 山下の手腕の源泉を前出の小森は、「意志の強さ、いい意味で田舎者なところ」だという。トップ選手はとかくチヤホヤされる。でも山下はふわふわせず、地道に頑張れる。監督になって先輩たちに指導法を教わりに行っていた。でもそのまま真似(まね)はしない。心の広さと頭の良さが結果につながる。そういう分析だった。

 山下は監督になった頃のことを「ただただ必要と思うことを、一生懸命やっていたんだと思います」と振り返った。女性が指導する珍しさから取材が殺到、その大変さばかり聞かれたが、ピンとこなかった。それよりも監督という仕事がわからず、不安だった。だからリクルートの小出義雄、野口みずきを育てた藤田信之らを訪ねた。陸上界に少ない女性のロールモデルを求め、ソフトボールの宇津木妙子らが出席するシンポジウムやセミナーなどにも参加した。

 川崎製鉄千葉製鉄所女子陸上部で監督をしていた女性と契約を結んだのは、02年だった。「おそらく、陸上の女性監督第1号はその方なんです」と山下がいうその人は、無名の選手をコツコツ育て、実業団駅伝でも結果を出していた。もともとは跳躍の選手で、自分にない視点を持っていると興味を持っていたから、高地トレーニングをする中国・昆明に通訳兼コーディネーターとして同行してもらった。中国語が話せる人で、川鉄千葉陸上部は99年に廃部になっていたのだ。

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