東京・世田谷の第一生命グループ女子陸上競技部グラウンドで。毎朝、自転車で出勤する
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 あの有森裕子が、山下佐知子を語って泣いた。驚いた。「よく泣くからねー」と、山下は笑った。このおおらかさ。選手でなくても、もっていかれる。開幕間近なパリ五輪に、選手を連れていく。輩出したオリンピアンは4人目だ。

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 4月2日午前6時過ぎ。東京・世田谷の第一生命グループ女子陸上競技部グラウンドでは、パリ五輪女子マラソン代表・鈴木優花(24)ら4人が1周425メートルの芝コースを走っていた。「6周目、1分47秒ちょうど」「7周目、1分46秒6」。ペースを伝える女子マネージャーの声が響く。

 2日前までの「監督」という肩書を「エグゼクティブアドバイザー兼特任コーチ」に変えた山下佐知子(やましたさちこ・59)は、スマホで走りを撮影している。選手が20周走り終えた。引き揚げるマネージャーに山下は「よく声が通ってたね」。前日に入社したというマネージャーの顔がパッと明るくなった。

 山下が第一生命に所属したのは1994年。朝練に合わせ出勤、完全オフは日曜のみ、試合や合宿時はその限りにあらず。そういう暮らしを30年続けている。

 鳥取大教育学部出身の山下が“全国区”になったのは、87年。大学4年で全国女子駅伝に出場、1区で区間賞を取った。世界クロスカントリー代表にも選ばれ、実業団から声もかかったが、鳥取大附属中学の教師になる。が、3カ月で退職、京セラ陸上部に入る。

「月刊陸上競技」記者の小森貞子は、世界陸上出場前に初めて山下を取材した。世界クロカンでの京セラ監督・浜田安則との出会い、勤務先で目の当たりにした同僚の突然死。教員から陸上一本に絞る経緯を語る山下に共感した。

 小森も教員としての赴任先が決まっていたが、記者になった。女性にとって教員=安定という時代。ましてや山下は、父を中学時代に亡くしている。母が実業団入りに大反対したのはよくわかったし、鹿児島大から高校教師になり競技を続けた浜田を山下が信頼する気持ちも理解できた。

「彼女は退路を断ってプロとして、この世界に入った。生半可では投げ出さないと思いました」

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矢部万紀子

矢部万紀子

矢部万紀子(やべまきこ)/1961年三重県生まれ/横浜育ち。コラムニスト。1983年朝日新聞社に入社、宇都宮支局、学芸部を経て「AERA」、経済部、「週刊朝日」に所属。週刊朝日で担当した松本人志著『遺書』『松本』がミリオンセラーに。「AERA」編集長代理、書籍編集部長をつとめ、2011年退社。同年シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長に。2017年に(株)ハルメクを退社、フリーに。著書に『朝ドラには働く女子の本音が詰まってる』『美智子さまという奇跡』『雅子さまの笑顔』。

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