頻繁に沖縄に足を運ぶが、「一定の距離をおかないと、沖縄で迷子になってしまう気がするんです。逆に沖縄が見えなくなっちゃいそうで。境界線に立って、自分のできる『係』を探したい」(撮影/松永卓也)

 2022年、沖縄と東京で開催された沖縄本土復帰50年を祝う「沖縄復帰50周年記念式典」のフィナーレで、沖縄の会場から「島唄」を歌った。しかし、最初は断ろうと思ったと言う。復帰50年は祝うものではないし、米軍基地は残ったままだと反対する人たちも多いからだ。

「歌ってよかったと断言することはできないけれど、引き受けたのは二つ理由があります。一つは、じゃあこれを誰がやるんだ、ということです。フィナーレを沖縄の人がやると県内で対立する声の渦に巻き込まれるかもしれない。活動しにくくなったりしたら大変だろうなと思いました。やるなら、ぼくぐらいがちょうどいいんじゃないかと思ったんです。ぼくだったら反対している人から何を言われてもいい。もう一つの理由は、日本の国内的にも、外国に対しても復帰50年の式典はきっちりやったほうがいいと思ったからです。いろいろな意味で忘れてはいけない大事な日だから」

 その楽屋では、いまも過大な基地負担が続くことへの抗議のシュプレヒコールがずっと聞こえていた。

 今でも、特に年配の人の中には、どうしてもヤマトは赦せないという人はいる。1609年に薩摩が琉球を制圧してから今日まで、沖縄は頭ごなしに押さえつけられてきている。今でも米軍基地を押しつけ、米兵の犯罪もやまない。政府は沖縄のことを知らないし、知ろうともしていない。沖縄に縁もゆかりもないからこそ、宮沢は学び続けてきた。ぼくぐらいがちょうどいい──という言い方は、沖縄の複雑な地肌を感じ取り、懊悩(おうのう)を抱えつつも腹を括って歌ってきたからこその言葉だろう。

「ぼくの名前を知らなくてもいいし、『島唄』だけ知ってくれたらいい。平和を祈る歌だから、究極的にいえば『島唄』が消えていってもいい。平和な沖縄があれば祈らなくていいんです」

 真顔を崩さずにさらりと言った言葉が、胸に刺さった。

(文中敬称略)(文・藤井誠二)

AERA 2024年5月13日号

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