幼稚園の頃から中学まで所属した「ラボ・パーティ」は、宮沢の視野を海外に開かせた。「ラボ・パーティ」とは、主に英語を通じて異文化の文学や詞、歌などに触れる子どものためのワークショップのようなもの。中2の時には、1カ月間カリフォルニア州のホストファミリーの家に滞在し、アメリカ生活を体感した。
「どちらかというと引っ込み思案で身体の弱い子ども時代でしたが、アメリカの大きさ、文化の違いに触れ、内向きだった自分が外界に目が行くようになった気がします」
THE BOOMはロックバンドとしてデビューしたが、バンドを引っぱる宮沢は、音楽と自身のルーツの不整合さに戸惑いがあった。ロックをルーツに持たない自分が、ロックを歌っていいのだろうか。関係ない誰かになりきってシャウトすることを否定しないが、どこか違和感がある。だから、英国のバンド「ポリス」や「ザ・スペシャルズ」がロックにジャマイカのレゲエやスカのリズムを取り入れ、「出どころがはっきりしない音楽」となっているのにしっくりきて夢中になる。
音楽家として自分の音を求める中で、沖縄民謡に再会した。宮沢は「沖縄」という熱にうかされたようになる。当時所属していたレコード会社のスタッフが、沖縄出張の際に買ってきてくれた「沖縄民謡大会」という全10巻のカセットテープを朝から晩まで聴き込んだ。
90年にTHE BOOMは3枚目のアルバム「JAPANESKA」で、初めて沖縄民謡の要素を取り入れた曲を収録した。そのアルバムのジャケット撮影で、宮沢は初めて沖縄の地を踏んだが、その時点ではまだ曲しかできておらず、詞はできていなかった。沖縄のゆっくりとした時間の流れの中で、言葉が自然と湧いてきたという。しかし、その悠久を感じさせる土地に、地獄のような地上戦が起きていたことを宮沢は知らなかった。
ほどなくして再訪、ひめゆり平和祈念資料館などを訪れ、元学徒隊の生き残りの女性の話に耳を傾け、激しい衝撃を受けた。
「自分は、家族が家族を手にかけるような『集団自決』(強制集団死)を生んだ沖縄地上戦の歴史を知らず、沖縄民謡にはまっていたのだと、無知が恥ずかしくなりました」
それでも宮沢にできることは歌を作ることだった。沖縄戦の惨劇を生んだ「ヤマト(内地)」から来た自分への罪悪感と懺悔(ざんげ)の念から「島唄」は宮沢の身体から放たれた。