能登半島の七尾にある七尾高校。明治32年(1899年)から校長を務めた奥田頼太郎の銅像が正門を入ったところにある。生徒たちの人望厚く、死の2年前に辞任する噂が出ると、生徒たちは県に留任の請願をだそうと集会を開き運動を始めるが、頼太郎は厳しく制止したと『七尾高校百年史』にはある。
能登半島の七尾にある七尾高校。明治32年(1899年)から校長を務めた奥田頼太郎の銅像が正門を入ったところにある。生徒たちの人望厚く、死の2年前に辞任する噂が出ると、生徒たちは県に留任の請願をだそうと集会を開き運動を始めるが、頼太郎は厳しく制止したと『七尾高校百年史』にはある。

 この頼太郎は後に、今の七尾高校(当時は七尾中学)の初代校長になるのだが、その校長時代にあった息子の立夫(40歳の時の子で私の祖父である)の「二心事件」での立ち回りが痛快だ。

 立夫は、海軍兵学校と陸軍士官学校の両方に合格したが、それが「二心がある」とされその合格を取り消されてしまった。頼太郎は中学校の校長会が東京であったおり、陸軍大臣田中義一に面会を求めた。青少年の教育に興味をもっていた田中はこれに応じたが、その席で、「海軍の試験をうけたことを理由に陸軍は学生の合格を取り消している」と問いただしたのである。田中が答える前に、左右にいた部下たちが、「そのような考えは陸軍にはない。それはあなたの考え違いだろう」と口々に頼太郎を責めたてた。

<予はしからば、その実例をあげんと、一昨年立夫が受けたる侮辱をときたるも、彼らは多勢をたのみて、予の言をうちけさんとせしにより、予も大声を発して抗論せし>

 頼太郎は、自分の名刺に立夫の文字を書き、陸相である田中に渡して、その場を辞すのだが、大正デモクラシーの原内閣の時代であったとはいえ、その行動は破天荒だ。

 その頼太郎の墓は、金沢市内の常松(じょうしょう)寺にある。初めてその墓を訪ねるのにあたって手伝ってくれたのが、北國新聞編集委員の竹森和生だ。

「金沢はお茶の街であり、武士の街であり、軍都でもあった。観光の街ではないんです」

 以下次号。

下山 進(しもやま・すすむ)/ ノンフィクション作家・上智大学新聞学科非常勤講師。400字×70枚の書き下ろし新章「新聞vs.プラットフォーマー」を加えた文庫版『2050年のメディア』が文春文庫で発売中。



週刊朝日  2023年4月14日号