今週と来週は、私のルーツを探る旅と「北國新聞」を重ねながら、ヤフーなどのプラットフォーマーに頼るのではない、独自の編集方針が、「持続可能なメディア」にとっていかに大事かを考えていきたい。

 私の叔母の家にあったのは『松坡遺稿(しょうはいこう)』という私の曾祖父奥田頼太郎の遺稿をまとめたものだ。「松坡」というのは、頼太郎の茶名。安政6年(1859年)生まれの頼太郎も茶をやっていたのである。

 この頼太郎の手記はめっぽう面白い。

 もともと、奥田家は、今の名古屋の出で、織田信長の次男織田信雄に仕えていた。関ケ原合戦のおりは、福島正則と竹ケ端城を攻め、その際の武勲で、名古屋を地盤にしていた前田家の目にとまり、前田利家から数えて三代目の前田利常に、馬廻り役として三百石でめしかかえられたのが元祖奥田次郎兵衛とその手記にはある。三百石の石高があれば、当時の加賀藩では、300坪の屋敷をかまえられたから結構な石高だ。

 が、この次郎兵衛「気立て極めて荒々しく」「争闘して」「何かの間違いにて何人かを殺害せられたり」。その争闘の理は次郎兵衛にあると沙汰があったが、しかし、「喧嘩両成敗とて(中略)その罰として食禄を召し上げられ浪人となりし」。

 二代目の正親の代になって、前田侯の家臣伴氏(五千石)の客分となったが、やがてその家来となって、頼太郎の父の第八代の悉以の代で明治維新を迎えた、とある。

 頼太郎は江戸時代から近代明治を生きた人で、その人生は波瀾万丈だ。8歳で伴八夫という当主に仕えて雑用をしていた。維新後、伴氏は落ちぶれたが、一族とすれちがうと、道端に下がって土下座する習慣がなかなか抜けなかったとも書いている。

 明治11年(1878年)に大久保利道を暗殺した杉村文一、島田一郎らと友人だったため、当局からの嫌疑をうけたりもした。教師などを務めるかたわら政治結社の結成にかかわった。当時の厳しい取り締まりのなか、演説会をひらいて中止をさせられたことを不服として警察署に直訴したり、検挙を逃れるために船で佐渡島に逃げたりと、喧嘩両成敗で浪人となった初代の血をどうやらうけついでいたように見える。

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