「僕はたぶん一般の人の感覚に近いんだと思います。映画は大衆のカルチャー。スピルバーグが『レディ・プレイヤー1』を撮るのをカッコイイ!と思う」(藤井)[撮影/高野楓菜]

河村光庸と出会い 「新聞記者」が誕生する

 だが商業映画デビューは苦かった。平均年齢50歳代のスタッフに藤井は的確な指示をすることができなかった。せっかくいい芝居が撮れても「雑音が入ったからいまのはダメ」と言われる。もっとカットを撮りたくても「全員分の送りタクシーのお金出せるのか!?」と怒鳴られ、言い返せなかった。お金の管理も照明も録音も、もう一度勉強し直さないとダメだ。新たなオファーをすべて断り、自主映画からやり直すことを決めた。すべての原動力は「リベンジだった」と藤井は言う。

「数年後、あれ? 1回消えたはずの新人が蘇(よみがえ)ってきてるよ、みたいにしたいなと」

 30歳で自主制作映画「光と血」を撮り、翌年に青春群像劇「青の帰り道」で商業映画に復帰する。32歳で撮った「デイアンドナイト」には内部告発をしたことで自殺に追い込まれる男や、非合法な手段で運営金を稼ぐ児童福祉施設のオーナーが登場する。善悪とはなにか? 自分が当時抱えていた葛藤を映画にぶつけた。それが2度目の転機を運んでくる。スターサンズのプロデューサー河村光庸との出会いだ。藤井は言う。

「突然『オーッスオッス、河村です』って電話がかかってきたんです。ちょっと会おうよ、って」

 当時、河村は69歳。完成前の「デイアンドナイト」のラッシュを観たよ、すごいね、と言われ前のめりで企画書を渡された。タイトルは「新聞記者」。当時の安倍政権による隠蔽(いんぺい)や文書改ざんなどリアルタイムな事件をモデルに、現代日本の闇をえぐるビビッドな内容だ。前監督が降板し、若い監督を探しているという。

 同社の映画プロデューサー・行実良(37)は当時の河村の様子を笑いながら思い出す。

「おい、藤井道人ってめちゃくちゃいいぞ!って興奮気味に電話をもらったのを覚えています。でも、そのときは断られているはずなんですよね」

 そう、藤井は断っていた。政治にまったく興味がなく新聞も読んでいなかった。河村はねばった。「君みたいな子だからこそ、撮ってほしいんだ」

 3度目のオファーで藤井は折れた。だが、どんなに勉強しても自分に政治を語ったり批判したりする土台はない。ならば登場人物の感情に踏み込んだ人間ドラマにしよう。河村がアグレッシブなアイデアを持ち込み、藤井がそれを映像に落とし込む作業が続いた。藤井は正直に言う。

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