大河ドラマに、紫式部の永遠のライバル清少納言が登場。漢詩での対決となったが、そもそも紫式部がなぜ漢詩に造詣が深かったのか。紫式部の一家は、典型的な文人貴族だ。曽祖父の兼輔は公卿で、歌才も豊かだった。父為時の兄為頼は、摂関家の藤原頼忠家の歌会に出席していた。永観二年(九八四)には、父為時が“式部丞”となり、この父の官職に由来し「紫式部」の名は付けられた。翌々年には“蔵人・式部大丞”に任ぜられ、為時は歌人としても有名となった。「式部の成長する環境のなかで少なからず影響を与えたはずだ。」と歴史学者の関幸彦氏は言う。同氏の新著『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』(朝日新書)から一部を抜粋、再編集し、三人の人物が紫式部にどのように影響を与えたか紹介する(「AERA dot. 2024年1月29日に配信した記事の再配信です)。
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式部の家筋についてはどうか。まずは父方の藤原為時の流れからふり返っておく。北家出身ながら、摂関の家柄の良房流ではなく良門流に属した。平安初期の嵯峨天皇の時代に活躍した北家冬嗣の庶子にあたる。兄の良房は嫡流として清和天皇の摂政となった、良門は、『尊卑分脈』では二人の子息利基・高藤がおり、式部はその利基の門流の子孫だった。一方、高藤の末裔は、式部の夫となる宣孝がいた。
式部の父方の祖となる利基から以降、兼輔─雅正─為時に至る流れとなる。注目されるのは兼輔だ。彼は中納言の官職を得て公卿の仲間入りをはたす。上級貴族への転身をはたしたからだ。その子雅正は周防・豊前などの国守を歴任したが、父兼輔と異なり公卿レベルには到達できなかった。そして式部の父為時の代にいたる。彼も正五位下、越前守や越後守などの北国の受領の経験者だった。いわば四位、五位の中下級貴族の典型だった。